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コンピュータとは何か

と松下幸之助氏が部下に質問したところ、満足できる答えが返ってこなかったので、松下はパソコン事業から撤退した(その結果、松下はパソコン市場で大きく出遅れた)、という業界では有名な逸話があります。この話を見てもわかるように、なんの役に立つのか、うまく説明できない、というのは、この業界のわりと昔からの課題だったのです(^^)。

 堀江氏のプランに具体性がない、という批判を見ていて、なんか、あまりそういうところは変わっていないなあ、と改めて感じてしまいました。もちろん、だからと言って、彼が説明義務を果たさなくていいとか、無条件に信用しろとか言ってるわけじゃありませんが(^^)。

 たとえば、マイクロソフトや IBM のテレビ CM を見ても、いったい両社の商品に何のメリットがあるんだかさっぱりわからないようなものが多いですよね。最近は開き直っているのか、そのわけのわからなさを逆手にとってギャグにしてたりして(^^)。かと言って、「なんとか奉行におまかせあれ」みたいなのを見ても、空辣なキャッチフレーズが踊っているだけで、具体性に乏しいことには変わりないし(^^)。

 ソフトウェア工学なんかでも、昔は、要求分析とか言って、顧客のニーズをいかに正しく掴むかが重要だといわれていたんですが、最近は、RAD とか言って、ようするに、「うだうだ言ってる間に実物を作って見せたほうが早いよ」みたいな方法論が流行っていたりします。

 もちろん、それは単にソフト屋が怠慢なわけではなくて、それなりに理由があるのですが、その理由すらも、門外漢の方にもわかるように簡単に説明するのはけっこう難しかったりします。そんなわけで、心情的にはちょっと堀江氏に同情してしまいました(^^)。

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ヒロシです

 自転車のサドルに、トリの糞が直撃してたとです。

 ウソです。ホントはヒロシじゃありません。でも、直撃してたのはホント。

 高校生のこと、登校中に直撃されて、仕方なくそのまま学校へ行ったことがありましたが、それ以来かも(^^)。

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MSCB の問題点

 ぼくも、MSCB に何の問題もないと思っているわけではありません。ただ、その問題点を、うまく表現する言葉が見つからなかっただけなのですが、なるべく正確な言葉で表現しようとすると、こういうふうになるのではないでしょうか。

 企業への投資には、株に代表されるエクイティファイナンスと、融資に代表されるデットファイナンスがあります。そして、もともと、エクイティに投資する人の多くは、効率的市場仮説を信じて投資しているわけではなく、自分の投資した会社が、市場の予測を上回ってアウトパフォームすることを期待して投資しています。逆に、デットに融資する人は、企業のパフォーマンスがどうであれ、一定の金利を得ることを期待して融資しています。

 ところが、MSCB の場合、一見エクイティファイナンスの形をとっていますが、その利益は、企業のパフォーマンスとはあまり関係ありません。アンダーパフォームしようが損しないかわりに、アウトパフォームしても得しないわけです。つまり、MSCB というのは、形式的にはエクイティファイナンスなのですが、実質的にはデットファイナンスに近いのです。

 MSCB に問題があるとすれば、この鵺的な性質の中にあるんだと思いますが、つづきはまた、時間のあるときに。

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野球中継

 Mora で清水ミチコさんの「歌のアルバム」を売っているのを見つけました。試聴してみたら、「野球中継」というトラックが面白そうだったので、買ってみました。

 試聴できる部分だけで引用すると、こんな感じです。

  • さあ、時期になるとお送りしています、野球がよくわからない人に聴こえる野球中継。解説はいつものように、おじいさん。
  • 昔野球やってました、よろしくお願いします。
  • さあ、今日の見所は?
  • えー、3 回戦が楽しみですね。
  • 表ですか、裏ですか?
  • 裏表でしょう。
  • 今日も 9 人でやるか、集まるといいんですが。
  • SBO がやっぱ決め手ですからね。
  • 野球バッターボックス滑り込みセーフ。出るか!振りかぶったが…

よーするに、タモリさんがやってたハナモゲラ語とか、ダウンタウンがゲイシャ・ガールズでやってた「ステップナー」みたいな発想なんですが、結構笑えました。

 他のトラックもダウンロードするかどうか、迷っています(^^)。個人的には、細野さんの「相合傘」を歌っている矢野顕子さんのマネ、というのに惹かれています。でも、マニアックだよな~。

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がくっ

 また asahi.com さんがこんな記事を…。

 だーかーら、何度も書いたけど、そんな単純な話じゃないと思いますよ。って、向こうがこんなブログを読んでるわけないから、それほど力入れてもしょうがないけど(^^)。

 これを読めばよくわかるけど、むしろ、普通の転換社債のほうが、コールオプションとしての価値があるから、オプション料を差っぴかないとおかしいんじゃないか、という話になるんです。

 MSCB にはオプションとしての価値はあまりないわけだから、ふつーに考えれば、(10% のディスカウントが妥当かどうかを除けば) ただの転換社債に比べても、有利発行になる可能性は低いんはずなんですよ。

 もちろん、仮屋先生も指摘しているように、効率的市場仮説が本当に成り立つのか、みたいな問題はあるんだけど。

 っていうか、ネットではこんな議論かなり前からしてたのに、なんで今頃記事にしたの? それも、本当の専門家にチェックを受けた形跡もないし。(してたら、「効率的市場」のこの字ぐらいは出てくるはずだと思うんだよねー。ここが一番の肝なんだから。)

 NHK 問題とかでもいろいろヘマしてんだからさー、もっとしっかりしてくださいよー。頼みますよー。

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ネタバレ T3

 結局、Judgement day が来ちゃったんですね(^^)。しかし、Fuel cell があんなに危険なものだとは思わなかった(^^)。最初からそんなに期待してなかったので、わりと楽しめました。ロボコップよりちょっと下ぐらいの面白さはあるんじゃないでしょうか(^^)。

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プチ情報

 Space Town Books という電子書籍書店に、

ジュリスト1220号特集「商法等の改正平成13年臨時国会」

というのが売っていて、中に、

新株予約権・新株予約権付社債――有利発行の問題を中心に 仮屋広郷

という新株予約権の有利発行についての論点を簡潔にまとめた論文があるのを見つけました。

 たった 630 円ですので、新株予約権について手軽にウンチクをたれたい人にはお手ごろだと思います。(^^)

(ただし、ある程度予備知識がないと、理解するのは難しいかもしれません)

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メディアと資本

 トラックバックもいただいたことですし、ここでちょっと、メディアと資本の関係についても考えて見たいと思います。私は、以下のようなポイントが重要だと考えます。

  1. アナログ地上波だけが映像放送メディアではなくなる
  2. メディアの公共性は、資本だけを制限しても確保できない
  3. 放送局=メディアではない

1.アナログ地上波だけが映像メディアではなくなる

 このブログでも何度か言及しましたが、かつては、アナログ地上波というのは、映像を広範囲に放送できる、ほとんど唯一のメディアでした。したがって、そのような公共財が公共の利益に反する目的に使われないように、放送法で制限をかけることには合理性があったと思います。

 しかし、ブロードバンド、衛星放送、ケーブルテレビなどの登場によって、この状況は大きく変わり、アナログ地上波は、映像放送メディアの One of them でしかなくなりました。

 さらに、従来のメディアでは、各メディアに固定したチャンネルを割り当てる必要があったのですが、インターネットでは、チャンネルにこだわらずアドホックに放送局を立ち上げることも可能になりました。

 もちろん、現在はまだ、アナログ地上波にしかアクセスできない人も多いでしょう。しかし、そのような状況は徐々に変わっていくはずです。そうなったときに、一部の企業に寡占を認める今の放送法が合理的でありつづけるかどうかには疑問があります。

2.メディアの公共性は、資本だけを制限しても確保できない

 メディアの公共性は、資本に制限を加えるだけで、自動的に確保されるというようなものではありません。

 たとえば、多くのコマーシャルメディアは、常にスポンサーからの圧力を受けていると言われますし、視聴者からの視聴料と国家による予算チェックで運営されている NHK の中立性にも疑問符がついています。また、スポンサーからの影響を排除しようとして、読者からの購読料だけで運営されることをうたった「週刊金曜日」などという雑誌もありますが、この雑誌がそれほど不偏不党かと言えば、首をかしげる人も多いでしょう。

 結局、メディアの公共性というのは、多用なメディアの共存を許し、互いに質を競い合うことでしか確保できないと考えられます。少なくとも、資本を制限すれば公共性が確保できるというほど単純なものでないのは確かでしょう。

3.放送局=メディアではない

 もう一つ重要な点は、現在の放送局というのは、単に放送事業だけを行っている企業ではないということです。

 たとえば、ニッポン放送は、コンテンツの企画製作事業、音楽・映像出版事業、関連商品販売事業、広告代理店事業などを行っています。

 したがって、仮に、放送事業そのものは放送法で保護するに値するとしても、このすべての事業を一律に保護するべきかどうかは疑問です。

 さらに、この記事などを見てもわかるように、フジテレビは、インターネット事業にも進出しようとしています。

「私は社内に対し、放送も通信に打って出ようと言っている。打って出ないと勝てない」

日枝社長:週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)

 つまり、純粋に放送事業をだけを行っている企業に対する資本参入を規制するならまだわかるのですが、一部で放送事業を行っているからと言って、その企業集団全体を保護してしまうと、それが逆に不公正な競争に利用されてしまう可能性もあると思うのです。

 あえて結論は書きませんが、少なくとも、このような点を考えておかないと、この問題にはマトモな答えは出せないと思います。

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ふぃーりんぐくりてぃっく

 asahi.com にこんな記事が出てるんですが、これってちょっとおかしくないですか?

 この「現在話題を集めているインターネット系企業」というのは「あの企業」しかあり得ないと思うんですが、それをわざとぼかして書いているところもそもそも卑怯なんですけど(^^)、それはおいとくにしても。

 「あの企業」が今やっているのは、デットファイナンスではなくエクイティファイナンスですし、仮にデットファイナンスとみなしたとしても、レバレッジ率せいぜい3~4 倍といったところですし、デットのままなら金利 0 ですからねえ。

(「この会社」の財務レバレッジ率が高いのは、連結子会社として金融会社や証券会社を持っているせいもあります。銀行などは、レバレッジ率 10 倍以上もざらですからね(^^))

 デットファイナンスの場合、貸し倒れリスクを除けば、貸し手側にはリスクはありませんが、エクイティファイナンスの場合には、出資した側だってそれなりにリスクを負うわけですからね。

 もちろん、それはそれでいろいろ問題あるんですが、こういういい加減な書き方で論じるのはいかがなものかと思いますけど。

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惜しむ声

 山形浩生さんが、朝日の書評委員をやめるらしいです。書評家として、今もっとも高く評価している人の一人だったので、ちょっと残念です。「惜しむ声」を一票投じておきます。

 もっとも、山形さんのことだから、朝日で読めなくても、Cut とか Amazon レビューとかには今後も書いてくれるんだろうと思いますが。

 しかし、朝日の書評委員って意外と儲かるんですねー(^^)。

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Jupiter

 重いネタが続いたので、久々に軽いやつを行きます。昨日の「ヘキサゴン」で、平原綾香さんの「Jupiter」の作曲者は誰か、という問題が出ていたのですが、誰も答えられなかったのが個人的には以外でした(ちなみに、ぼくの両親と友人約一名は、この曲がヒットしたこと自体を知らなかった。これにはもっと驚いた(^^))。いうのは、この曲、これまでも結構いろんな人にカバーされてるからなんですよね。

 ぼくが一番最初にこの曲を聴いたのは、多分、シンセサイザー音楽のパイオニアの一人である冨田勲氏の「惑星 」というアルバムだったと思います。たしか、FM 放送でエアチェック(これもいい加減死語か(^^))したのかな。そのときに、原曲がクラッシックだという解説を聞いて、クラッシックらしからぬ題名に驚いたのを覚えています。

 これ、今聞いてもたいして驚かないかも知れないけど、当時としてはかなり突出した作品だったと思います。なにせ、YMO のデビューより 1 年も前の作品ですからね。もちろん、今のような MIDI シーケンサーもなければ、デジタルシンセやサンプラーもない時代に、アナログシンセと多重録音を駆使して作った作品です。個人的には、冨田さんも、もうちょっと再評価されてもいいんじゃないかと思いますね。

 あと、個人的な好みでいえば、遊佐未森さんが、平原さんと同じく「木星」だけをカバーした「a little bird told me」というのがあります。こちらは、「」というアルバムに入っています。これは、1999 年ですから、平原さんよりちょっとだけ早いですね。こっちは、平原バージョンのような壮大な感じではなく、ホントに眠れない夜に子守唄がわりに聴きたいような、しみじみと染み入るようなアレンジになっています。

 今回探したら、他にも、いろんな Jupiter を集めた「ジュピター100%」なんて CD も出てて、今紹介した 2 作品も収録されているようなので、これでいろいろ聞き比べてみるのもよろしいんじゃないでしょうか。

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四十にして…

 思想とか社会科学とかいうものに対して、前から不満に思っていたこととして、人間の経年変化みたいなものをうまくモデル化できていないということがあります。この歳になるとはっきるわかるのですが、人間は、歳をとるにつれ、肉体的にだけではなく、考え方も変わってきます。そして、その変わり方には、人によらず共通のものがかなりあると思うのですね。

 たとえば、テリー伊藤氏が何かの番組で「この歳になると、世のため人のためを考えることぐらいしか楽しみがなくなるんですよ」というようなことを言っていましたが、これは、たんなるカッコつけとか韜晦じゃなくて、年齢による心境の変化をわりと素直に表現した言葉なんじゃないかと思うんですよね。

 いわゆる「戦後民主主義」では、全体主義の反動として、「自分を大切に」ということを妙に強調した時期がありました。でも、そういう人権思想というのは、あくまで、社会システムを支えるための擬制であって、社会が個人に自己犠牲を強いては絶対にいけないけれど、個人が自分の意思で利他的な思想を持ち、利他的に行動するのは、それこそ勝手だと思うんですよね(^^)。だからそこには、社会思想と、個人がよりよく生きるための実存哲学の混同があったと思います。

 特に、若いうちは自分のことを考えるだけで精一杯の人も多いでしょうけど、歳をとってくると、自分の寿命にも先が見えてくるし、その寿命の範囲でできることもだいたい見えてきてしまうので、自分のことだけ考えていてもつまらなくなってくるんですよね(ホントだよ)。

 一時は、親の子供に対する干渉とかまで、「自分の欲望を他人に投影しているだけだ」みたい言って悪者視する風潮がありましたよね。でも、歳をとるにつれて、自分の人生とか将来とかを考えることが、欲望の対象として成立しにくくなってくるのは当り前だと思うんです。

 あるいは、老人になっても、将来に夢を持って前のめりに生きているひとを妙に持ち上げるような風潮もあったけど、本当にそんな生き方にそれほど普遍性があるんでしょうかねえ。むしろ、孫の喜ぶ顔が見たいとか、近所の掃除をして近所の人が喜ぶ顔が見たいとか、そういう方が普通なんじゃないでしょうか。

 だから、「自分の欲望として他人のことを考える」という気持ちの存在自体は認めてあげないと可愛そうだなと思うようになりました。

 三谷幸喜の「新撰組!」の一回目で、佐久間象山が「十代のうちは自分のことだけ考え、二十代になったら家族のことを考え、三十代になったら日本のことを考え、四十代になったら世界のことを考えろ」(細かいところはウロ覚えです)とか言うのを聞いたときには、これぞ名言と思いました。(ホントに佐久間象山が言った言葉なのか、三谷さんの創作なのかは知らないけど。)ぼくの実感としては、孔子の「四十にして惑わず」よりもよっぽど響く言葉です。

 だから、利己主義とか利他主義とか一律に切り分けるんじゃなくて、歳をとるにつれて考え方が変わるということを肯定する実存哲学みたいなものがあった方が、高齢者の精神衛生のためにもいいんじゃないかと思うんですけど(^^)。いかがでしょう。

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転換後のライブドア資本構成

 野次馬的興味でずいぶんいろいろ調べたついでに、こんなん作ってみました(^^)。

 データは、EDINET からとってきた、平成16年12月27日提出の第9期有価証券報告書、および、平成17年2月8日提出の臨時報告書を元にしています。また、転換前のリーマンのライブドア株保有数はゼロと仮定しています。

 この計算によると、リーマンが堀江氏を超えて保有株数トップになるのは、転換時の株価が

≦402 円

になったときであり、さらに、リーマンの保有率が 33.3% を超えるのは

≦276 円

になったときです。

 転換下限価格は 157 円なので、この転換分だけでリーマンの保有率が 50% を超えることはあり得ません。(ただし、報告義務のない範囲でもともと所有したり、その後に買いましたりした場合にはこの限りではない)

注1: これはあくまで概算であり、計算を間違えているかも知れないので、二次使用は自己責任で行ってください。

注2: 筆者はライブドアの株を所有していません。この小文は、投資判断に使われることを意図していません。投資は自己責任で行ってください。

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MSCB 補足

 こういう書き方だと、詭弁を弄しているように思われる人もいるかも知れないので、もうちょっとだけ補足します。

 確かに、増資(転換)した瞬間には、一株あたりの純資産(株主資本)は確実に減るので、株主の利益が損なわれたように感じるのかも知れません。しかし、言うまでもなく、企業価値というのは、純資産の直接的な評価額だけできまるのではなく、その資産が未来永劫にわたって生み出す収益の予想によって決まるのです。そして、増資をすれば資産の構成も変わる(ライブドアの場合で言えば、ニッポン放送株が加わっている)ので、収益率の予想も当然変わってくるはずなのです。

 私がしつこく「効率的市場仮説に立てば」と言っているのは、この収益率の予想値として市場株価(収益率)を使えばという意味であって、もちろん、市場の予想の代わりに、当事者同士の主観的な予想で評価額を決めたっていいわけです。しかし、それが市場の評価より絶対に正しい、と言える者は神しかいません。そうである以上、たとえ効率的市場仮説が成立していないとしても、収益率の予想値として市場時価を使うことがそれほど間違ったことだとは言えないだろう、ということが言いたかったわけですが、おわかりいただけたでしょうか。

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MSCB 続

 前に MSCB 書いたのを読み直してみたら、ちょっとわかりにくかったので、もう少し論理的にすっきり書き直します。今回は、必要以上の混乱を招かないために、ファンダメンタルズの話に限定します。つまり、市場では効率的市場仮説が成立しており、株価は常に企業価値を正しく反映しているとします。

 私の言いたいのは、このような仮定が成り立つ場合に、MSCB の転換価格が市場株価と同一であるなら、その転換自体はファンダメンタルズに対してニュートラルな影響しか与えないはずだ、ということです。

 株価が下がったところで、MSCB の転換が行われると、既存株主は損した気分になるかも知れませんが、効率的市場仮説に立てば、実際の企業価値は、株価が下がった時点ですでに下がっているのであって、MSCB の転換は、それを追認しているにすぎません。

 ただし、ライブドアの場合で言えば、転換価格に 10% のディスカウントがあるので、この分は確実に資本コストとしてのしかかってきます。しかし、ファイナンスには、多かれ少なかれ資本コストがつきものなので、問題は、その資本コストと引き換えに、バランスシートの借り方に追加された資産、つまり、ライブドアの場合で言えば、ニッポン放送株と残りのキャッシュが、資本コストを埋め合わせるだけの利益率を上げられるかどうかです。もしイエスなら、ファンダメンタルズはよくなるし、ノーなら悪化する。単純化して言えば、そういうことだと思います。

注: 筆者はライブドアの株等を保持していません。この小文は、投資判断に使われることを意図していません。投資は自分の判断で行ってください。

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価格比較サイト用 Mycroft プラグイン

 価格比較サイト用の Mycroft プラグインもいくつか作りました。

こちらも、ご自由にご利用ください。

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MSCB

 MSCB について、みなさん興味深い議論をしていらっしゃって、すごく面白くて勉強にもなるんだけど、納得いかないところもあります。

 つまり、きわめて教条主義的に効率的市場仮説に立ちますとですね(^^)、市場価格というのは、どの時点をとっても高すぎるとか安すぎるとかいうことはないわけでしょ(^^)? っていうことは、MSCB というのは、いつでも請求できる時価発行増資みたいなものにすぎないのではないか、という気もするのです。

 空売りのことが問題になるんだけど、ライブドアだって賃借銘柄なんだから、堀江氏から借りなくたって、やろうと思えば空売りなんかいつでもできるわけですよね。それで、株価が下がってから市場時価で買い取って現渡しするのと、それほど違うのかと(^^)。もちろん、市場から調達しようとすると、そのせいで株価が上がってしまう可能性があるが、時価増資ではその心配はない、という差はありますが。

 空売りすると株価が下がると決め付けてるような論調もあるんですけど、それで必ず株価が下がるんなら、みんな空売りしますよね(^^)。空売りする奴もいれば、信用買いで買い支える奴もいる。それが市場ですよね。しかも、時価といっても、3 日ぐらいの VWAP かなんかでしょう。そうすると、一時的な市場操作の有効性も限定されてきますよね。

 そうすると、本質的な問題は、むしろ、発行量が市場の需給を操作しうるほど大量であることと、10% のディスカウントなのかなあと。でも、デットファナンスでも金利はとられるんだからねえ。その代わりと思えば、10% は多いには違いないけど、とるチャンスが 1 回しかないことを考えれば、そんなもんかも、という気もします。(^^)

 MSCB の損益についての、ちゃんとした理論モデルってあるんですかねえ。もっとマジメに探せばでてくるのかなあ。今そこまでヒマないけど。

 ぼくはあくまでしろーとですから、とんでもなくはずしたことを書いてるかもしれないので、よい子のみなさんは、もっとちゃんとした専門家の方の意見を聞いて、自分で判断してくださいね(^^)。

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バラエティは芸能界の価格破壊か

 なんか、いい加減バラエティというものに飽きてしまいました。今頃飽きたのか、と思う人もいるかも知れないけど。(^^)

 もともと、芸能人というのには、ある種雲の上の人というイメージがあったからこそ、庶民性を垣間見せることがギャップになって面白かったわけですよね。でも、今やバラエティにしか出てないタレントとかも増えてきて、そういう人が庶民性を見せても、正直、だからなんだよ、という感じになってきた。

 最近はもう、何を聞いてもネタに聞こえてしまう。でも、わざわざネタを作って発表するんだったら、プロが本気で作ってるネタ番組を見たほうがましですよね(だからネタ番組が流行ったのかしら(^^))。それでも、ダウンタウン DX とかは、あまりにもウソ臭い話には突っ込みを入れたりするから、まだ見てられるんだけど。

 あえて暴論かませば、バラエティっていうのは、実態以上の神秘化によって高価格カルテルを維持していた芸能界の価格破壊みたいなもんだったのかも知れませんね。でも、今や採算ギリギリの安値が当たり前になってきて、そこで突出しようとすると、非常識やアンモラルや掛け値なしの犯罪までをも売り物にするしかなくなってきたのかもしれない。

 経済とのアナロジーでいくなら、ここでふたたび、芸の力によって他と差別化をはかるような高付加価値戦略が出てくるはずなのですが、はてさて。。。(^^)

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電子書籍書店検索用 Mycroft プラグイン

 日本の電子書籍書店を検索するための Mycroft プラグインをいくつか作りました。

 Netscape もしくは Mozilla にインストールして使うことができる(はず)ので、ご入用の方は、自由にダウンロードしてお使いください。自分で言うのもなんですけど、全部の店を一括で検索できるので、結構便利です(^^)。

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メディアとコンテンツの関係

 昨日ふと、自分の中での「テレビ」の位置づけが、いつのまにか変わっていることに気づきました。つまり、ぼくらの世代にとっては、「テレビ」というのは、長いこと、他に選択肢がないから見ているものだったのですが、B フレッツを導入して以降、「テレビ」というのは、ダウンタウンや爆笑問題や河野さんや市川さん(なぜかテレ朝中心(^^))のような、他では見れないコンテンツがあるから見るものに変わってきたのです。おそらく、ブロードバンドがもっと普及すれば、この傾向はもっと進むでしょう。

 これまでの地上波テレビ局の優位性というのは、あくまで、メディアそのものを握っていることであって、優秀なコンテンツ製作者を集めることができたのは、その結果にすぎなかったと思うのです。ところが、映像を流せるメディアが他にたくさん登場したことによって、この関係は逆転し、むしろ、コンテンツを握っていることの方が地上波テレビ局の優位性になってきたわけです。

 けれども、視聴者の側から見れば、好きなコンテンツさえ見れれば、メディアなんてどれでもいいのです。というか、むしろ、どのメディアからでも好きなコンテンツを見れた方が便利に決まっているのです。しかも、ブロードバンドには、アナログ地上波にはないインタラクティブ性もあったりするので、現在のテレビ番組がブロードバンドでも見れれば、その方が便利に決まっています。

 ここでもし、地上波テレビ局が、コンテンツを武器に新興メディアを支配したり、特定のメディアにコンテンツを囲い込むようなことをすれば、視聴者の利便性は大きく損なわれてしまうでしょう。

 おそらく、今後の 10 年ぐらいで、メディアをとりまく環境は激変することでしょう。これまで、地上波テレビ局は、電波帯域の有限性という特殊な条件のおかげで、ある種の「寡占」を許されてきたわけです。その特権は、公共性と引き換えに与えられたものだった、ということを正しく理解する者が、次代の真の勝者になるのではないでしょうか。その点をしっかりと見守って行きたいと思います。

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デジタルなリアリズム

 最近ちょっと、ひぐちアサさんのマンガにはまっています。はまっているというより、好奇心かもしれません。この人はなんでこういうマンガを描くのだろう、という。

 正直、昔の少女漫画と同じで、キャラの書き分けがわかりづらかったり、フキ出しが誰が喋っているのかわかりずらかったりするところはあります(ただし、背景を細かく書き込んでいるところは好感が持てる)。でも、それでもなんか惹かれるものがあるんですよね。それはなんなのか。

 ぼくが昔読んでいたような、ふつーのエンターテイメント作品は、人間に対する通俗的な思い込みを前提にして、それに応えたり裏切ったりすることで、読者に訴えかけていくものが多かったと思うのです。ところが、この人の作品からは、あまりそういう通俗的な人間観が感じられない。そこが、ちょっとハードボイルド的な文学性を感じさせるというか。

 まあ、ひょっとしたら、この世代が単にぼくらの世代とは違う人間観を持っているだけなのかも知れないけど(^^)、まるで異性人がこっそり人間を観察して描いたマンガのような感じさえします。

 強引にこじつけると、テクノを通過した打ち込み音楽が、グルーブクォンタイズなどを駆使して、微妙なタメやハネまで再現するようになり、逆に生身のドラマーもその影響を受けて、よりタイトで人間にしかできないようなドラミングを目指すようになったのと似たものを感じます。そういう、いったんすべて解体した後に再構築されたデジタルなリアリズムというか。ちょっとホメすぎかな~。でも、この人は、そういう期待を抱かせるものを持っていると思うので、がんばってほしいです(^^)。

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それはちょっと違うのでは

 ライブドアのニッポン放送株取得について、いろいろ言われているようですね。ぼくは堀江氏には何の義理もないし、彼のやることをすべて支持するわけではないのですが、「金にモノを言わせて」という批判の中には、M&A に対する理解がちょっと表層的ではないかと思われるものもあると感じます。

 そもそも、どんな大企業でも、無限の価値があるわけではなくて、適正価格 (フェア・バリュー) というものがあります。企業を買収するときにも、適正価格より安く買えば得をしますが、高く買えばかえって損をするのです。したがって、堀江氏が得をするのは、

  1. 堀江氏が買収することによって、ニッポン放送の企業価値が上がる
  2. もともとニッポン放送の市場価格が適正価格より安かった

のどちらかの場合だけなのです。

 この場合、ニッポン放送の株は、フジテレビの TOB によって、すでに割高気味になっており、堀江さんはその TOB 価格より高く買っているのですから、2 の方はあまり考えられません。

 したがって、堀江氏が得をするためには、ニッポン放送の企業価値を、今よりも上げるしかないのです。ニッポン放送が現在もつ実体的な資産はもちろん、人材とか人間関係とか、そういう「組織特殊的な関係資産」みたいなものだって、今以上に活用できなければ、損するのは堀江氏自身です(もちろん、主観的には活用しようとして、結果的に潰してしまうことはあり得る(^^))。そして、企業価値が上がれば、(他の条件を同一とみなせば) 一般には、株主も社員も消費者も得をするのです。

 しかも、堀江氏は、ありあまっている金で買ったわけではなく、わざわざ借金をして買っているのですから(転換社債は転換されるとは限らない)、もし、高く買いすぎていれば、借金の利子分の利益も出ない(適正価格は金利との相関で決まる)ので、彼は大損することになるわけです。(注:金利なしの MSCB だということを確認したので、それについてはこっちに書きました。)

 もちろん、つっこみどころはいろいろあるだろうけど、彼は彼なりにリスクを背負っているし、それなりに公共の利益のことも考えているだろう、ということぐらいはわかってあげないと、ちょっとかわいそう、というか、あまりに不毛な議論になってしまうよなー、と思ったりするんですけど。

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ジーンズのボタン

 デブになったせいか、恥ずかしいことにジーンズのボタンがとれてしまいました。他の部分には問題ないので、なんとか自分でボタンだけつけなおしたいと思い、インターネットでいろいろ調べたところ、決して数は多くないものの、ジーンズ用の「タックボタン」を小売している店を、いくつか見つけました。

プリムのタックボタン 今回は孝富さんというお店で購入。こちらのミスで、期限切れのカード番号が入力されてしまうというトラブルがあったのですが、たいした金額でもないのに、非常に丁寧に対応してくれた、感じのよいお店でした。

 取り付けは、付属のプラスチックの保護具にボタンをはめ込んで、ハンマーで叩くだけ(ハンマーもしくは金槌は自分で用意する必要有)。しごく簡単でした。

熱接着補修テープ(すそ上げ用) 他にも、熱接着補修テープ(すそ上げ用)なども購入。アイロンで過熱するだけですそ上げができてしまうらしいです。最近、世の中の進歩が早くて、昔はできなかったことが、いつのまにか簡単にできるようになっていたりするので、ときどきチェックしないといけませんね~(^^)。(また、こうのもいろんな発見があって結構楽しかったりします。)

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Vrioon

 教授 Alva Noto のコラボレーションによる「Vrioon」というアルバム、iTMS のおかげでやっと聴くことができました(^^)。出たのは 2002 年の 12 月なのですが、インディーズなのでなかなか手に入れる機会がなかったのです。

 教授のピアノに Alva Noto がエレクトロニカ系のノイズを重ねただけのシンプルな構成ですが、結構はまります。昔のブライアン・イーノの「Music for Airports」なんかと似た感じだと思っていただければよいかも。

 教授のピアノも、昔のような音数の多い重厚な和声ではなくて、「El Mar Mediterrani」あたりから聞かれるようになった、音数は少ないけれども透明感があって微妙な味わいのある音になってます。(そういう意味でも、ハロルド・バッド似になっているかも(^^)。)

 今年の 3 月 20 日には、同じコンビで「Insen」という CD を出すそうです。こちらも楽しみです。

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「金で買えないもの」はあるか

 まず、そもそもマーケットを設定することができないもの、つまり、法律とか倫理の面から、売買することの許されていないものがありますね。人身売買とか、売春とか。また、そもそも所有権自体が設定できないものも売買できないわけだけど、何に所有権を設定できるかというもの、結局、社会の合意によって決まるわけだから、ある種の倫理の問題だと言えます。

 たとえば、よく「人の心は金で買えない」と言うけれど、サービス業なんかでは、心のこもってないサービスより心のこもっているサービスの方が高く評価されますし、支払われる対価も一般に後者の方が多いですよね。つまり、サービス業のとっては、ある意味、心を金で売ることの方が美徳とされているわけです。だから、これはあくまで社会倫理の問題なんです。

(企業買収なんかでもそうで、株式を公開するということは、「どうぞうちの会社を金で買ってください」と言っているのと同じことなんですね。だから、公開企業の従業員は、「だれが株主になっても、その株主の利益のために働きます」という倫理観を持つことが前提とされているし、だからこそ、金を集めやすくなるとか、そういういろんな恩恵も受けられる。そうでなければ、客を選ぶ店とかと同じになってしまうわけで、それだったらわざわざ公開したり上場したりしないで、プライベート・カンパニーでやればいいじゃない? ということになってしまうわけです。(岩井さんの言うような、「法人資本主義的」な会社についてもちょっと異論があるのですが、それはまたいずれ。))

 つまり、「金で買えないもの」以前に、「金で売り買いすべきではないもの」というのがあるわけ。

 では、それ以外の「金で売り買いしてよいもの」は何でも買えるのか、というと、これも必ずしもそうではない。なぜかというと、たとえマーケットがあったとしても、実際に売買するかどうかは、所有者の自由だからです。

 特に、天然資源や大量生産品のように、誰から買っても大差ないものなら、特定の人が売りたくないと思っても、マーケット全体を探せば、誰か売ってくれる人が見つかる可能性が高いと言えますが、商品一つ一つに個別性のあるような芸術品とかになると、話は違ってきます。こういうものは、理論的にはマーケットが存在するといえますが、実際には、その所有者以外に売り手はいないわけだから、その人が合意しなければ買うことはできません。

 そういう意味では、「金で売り買いしてよいもの」の中にも、現実問題としては「金で買えないもの」も存在すると言えます。

 あ、これはあくまで一般論で、誰かを批判したいとかそういう意図はありませんので、念のため。(^^)

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Chasm は傑作です

 教授が、 「昨年、CD出したけど、本当に売れない。どうにかしてほしい」 と嘆いていたそうな(^^)。

 他の人なら、これはタダの冗談だろうけど、教授の場合は、半分ぐらいは本音だったりするんだよねー、とサンスト時代以来の教授ファンの私は思ったりします(^^)。

 昨年出した CD というのは、たぶん、「CHASM 」のことだと思うんだけど、これ、そんなに売れなかったのかなあ。個人的にはかなり好きなんだけど。ウチの iTune の "Play Count" も、多い曲だと 100 回近くになっているし(もちろん、正規に購入してから MP3 に落としたのです。為念)。少なくとも、教授の数多いアルバムの中でもベスト 5 ぐらいには入る作品ではないかと思います。ちなみに、他の 4 枚は、

といったところか。どれもそれぞれ違ったよさがあるので、これ以上順位は付けられませんが(^^)。

 かつての教授は、どちらかというと、ありあまる才能にまかせて、一つのアルバムにいろんなアイデアを詰め込んで、力で圧倒するという感じでしたが、「CHASM」の場合には、確かに派手さはないんだけど、ひたすら余計なものをそぎ落として芯の部分だけを取り出したような、そういう強さを感じるんですよね。これは、かつての教授にはあまりなかったものだと思います。

 たとえば、六本木ヒルスの CM に使われた「the land song」とか、「Seven Samurai - ending theme」には、雅楽の要素がとりいれられているんだけど、かつては、そういうエスニックの要素を使うにしても、「実は、こんな技もあるんですよ」みたいな感じで、あくまでエキゾチズムとして取り入れるという感じだったと思います。

 でも、「CHASM」の場合には、教授自身の中にある「日本的なもの」を煮詰めに煮詰めて、蒸留した後に残った結晶をパラパラと振りかけた、という感じで、より昇華された洗練を感じるんですよね。その違いは、やはり雅楽を使った「オネアミスの翼 」の「国防総省」なんかにくらべても、歴然としていると思います。これは、長年数々の実験を繰り返してきた教授が、この歳にして初めてたどりつける境地なのではないでしょうか。

 だから、少なくともぼくは、このアルバムを聞いて、教授が次にどんな曲をつくるかますます楽しみになってきました。だから、「アジエンス」みたいなゆるい仕事ばっかしてないで、もっと過激に突っ走ってほしいです。(^^)

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こんなのあり?

 IFILM のサイトでこんな CM を見つけました。IKEA というスウェーデンの家具会社の CM らしいんだけど、こんなんあり? っていうか、日本のお茶の間でこんなのが映ったら、素直に笑えるのかなあ。独身なのでよくわかりません(^^)。しゃれているといえばしゃれているけど。

 ちなみに、最後の英語は「片付けろ!」という意味。

後記: IKEA の他の CM も見てみたら、この「片付けろ!」というのはシリーズになっていて、一種の二段落ちなんですね。そういえば、ニュース 23 年末恒例の CM 特集かなんかで見たやつもありますね。知らなかったけど、こんなんばっか作ってる会社なんですね。(^^)

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フーコー的権力に勝つ方法

 表題には「フーコー的」と書きましたが、ここに書き留めておきたいのは、フーコー個人の考えに対する反論ではなく、ある種の文化決定論というか、個人の行動や思考は、その個人が属する文化によって決まる、というような考え方一般に対する反論です。

 思想家の中には、このような文化の力をかなり過大視する人もいますが、私には、文化の力が、個人がその影響から脱するのがまったく不可能なほど強いものだとは思えないのです。

 話を単純化するために、人間のかわりにロボットを考えて見ましょう。ロボットというのは、人間がプログラムしたものだから、その行動は完全に読めると思っている人がいるかも知れません。しかし、これは錯覚なのです。

 ロボットの知能のモデルとなるオートマトンには、行動が入力によって完全に決まる決定性オートマトンと、確率的なゆらぎがある非決定性オートマトンがありますが、私は、非決定性だから読めない、と言っているわけではありません。実は、たとえ決定性であっても、行動が読めない可能性はあるのです。なぜかと言うと、人間はロボットに対する入力を完全にコントロールすることはできないからです。

 ロボットと言うのは、パソコンのように、人間からだけ入力を受とっているわけではなく、自然界から直接さまざまなシグナルを受け取っています。したがって、この入力をすべて予測もしくはモニタできない限り、完全に行動を予測することはできないのです。このことは、ロボットコンテストなどを見ていれば、すぐ実感できると思います。

 これは、人間についても同じことであって、人間は、人間から発信された情報もたくさん受け取っていますが、自然界からの情報もそれ以上にたくさん受け取っています。そして、その自然界から受け取る情報は、一人一人みな違っています。したがって、どんなにフーコー的権力が強力であっても、それだけで個人の行動を完全に制御することはそれほど簡単なことではないのです。

(だからこそ、現在のロボットの多くは、工場のような人工的に管理された環境で使われているわけです、これが、惑星探査とかに使うと、行方不明になってしまったりすることがあるのはご存知の通り。)

 その傍証は、歴史の中からも見出すことができます。たとえば、かのガリレオは、アリストテレスの自然学という、当時の支配的な知の枠組みの根幹をなす言説である、落体の法則を否定したわけですが、彼は、レヴィ・ストロースのように、非西洋的な世界に行って何かを教えてもらったわけではなく、自ら実験することによってより現実に合った法則を発見したにすぎません。

 もちろん、彼がそういう実験を思いついたこと自体が、すでにパラダイムがシフトしかけていたことの現われである、という面もあるでしょう。しかし、そのようなパラダイムシフトに先鞭をつけたコペルニクスやティコ・ブラーエにしても、やはり、精密な観測に導かれて、パラダイムの呪縛から抜け出していったのです。むしろ、本当に当時の人々をしばっていたのは、ガリレオを宗教裁判にかけるような実体的な権力の方だったのではないでしょうか。

 そういう意味で、自分の五感で世界を観察し、自分の力で考えようとする人なら、誰でもフーコー的権力に勝てる可能性がある、と私は思います。

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中東停戦合意

 予想ではなく、希望として、なんとか少しでもよいほうに動いて欲しいですね。。。

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「正しい日本語」は手段にすぎない

 いつの時代もそうなのかも知れませんが、最近また、「日本語の乱れ」が少し話題になっているようですね。

 言葉にはもともと、進化が必要という面と、共有が大事だという面の両面があって、言葉の問題というのは結局、この両面に向かうベクトルをどうバランスするかという問題だと思うのです。

 もちろん、言葉と言うのは、世の中の現象を記述する道具ですから、世の中の変化に合わせて変化させる必要があるのは当然です。その一方で、いまさらソシュールとかをひっぱり出すまでもなく、言葉というのは恣意的な名前にすぎないので、それが通じるのは、多くの人が言葉と意味の結びつきを共有しているということだけにかかっているわけです。したがって、共有を図る努力を継続しなければ、道具としての有効性も薄れてしまうんですよね。

 これは、ソフトウェアにも似たところがあって、機能はバージョンアップの度に増やしたいのですが、そのせいで以前のバージョンとの互換性がなくなってしまうと、既存のユーザーから見ればかえって不便になってしまうという問題があります。

 ソフトウェアの場合には、この問題を通常、上位互換性の維持という形で解決します。つまり、既存のユーザーに対して、新しい機能の恩恵を受けられない可能性はあるが、少なくとも、これまで使っていた機能が使えなくなることはない、ということを保証するわけです。そうすると、既存のユーザーから見ても、バージョンアップしても(料金以外に)損をする心配はなくなるので、後は、新機能がバージョンアップ料金に見合うかどうかだけで購入を判断できる。そうやって、ユーザーにできるだけスムーズに自分の意思でバージョンアップしてもらい、大部分のユーザーがついてきたことを見計らって、旧バージョンを廃止する、というやりかたをするわけですね。

 「どうせ言葉は変わっていくものだから」というような意見にやや不足していると思われるのは、このような共有を大事にする方のベクトルだと思うのです。

 ぼくが以前に紹介した「女子高生」というマンガを初めて読んだときにも、中に出てくる言葉がさっぱりわからなくて、インターネット上のコギャル用語集みたいなものを調べながら読まなければならなかったのですが、自分の若い頃の経験からしても、おそらく、喋っている方は、自分の言葉がそのように一部の人にしか通じないものである、ということをあまり意識していないと思うのです。

 実は、本当に問題なのは、「何が正しい日本語か」ということよりも、この一種の排他性というか、自分の言葉をより多くの人に正しく伝えたい、という意識の欠如だと思うんですね。

 もし、そういう意識があれば、自分の仲間内以外の人や、不特定多数の人に向かって話をするときには、より多くの人が理解できる言葉で話そうとするはずで、その結果、必然的に「正しい日本語」とされる表現を参照する必要もでてくるはずです。また、新しい言葉を導入しようと思ったときにも、性急に一人よがりでやらずに、多くの人がついてこれるかどうかを確認しながら、少しづつ導入しようとするはずです。また、そういう意識があれば、過去の言葉も、それぞれ時代の要求にこたえて登場し、歴史の淘汰を受けつつ生き残ってきたものなのだ、という事実を正当に受け止めることができるでしょう。

 逆に、日本語の乱れを批判する側にも、そういう意識があれば、仲間内の他愛ないバカ話にまでいちいちケチをつけて煙たがられるというようなこともなくなるでしょう。

 結局、進化と共有のバランスをとるために必要なのは、そういう意識なのであって、「正しい日本語」はそのための手段に過ぎません。その点を押さえておかないと、言葉の議論は不毛な議論になってしまうと思うのです。

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「べき」にもいろいろあるはず

  内閣府が 5 日付で発表した「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方が、初めて多数派になったとのことです。

 まあ、ぼくはどっちが多数派かにはたいして興味がないのですが、この手のアンケートでいつも気になるのは、「…べき」という質問が大雑把すぎやしないか、ということなんですよね。

 つまり、実際には、自分の家庭では、妻に仕事を持って欲しくないと思っているが、他所様の家庭に関してはどうでもいいと思っている人もいるだろうし、逆に、日本の家庭はすべてそうあってほしいと思っている人もいるはずなのに、この質問だとその区別がよくわからないからです。

 前者は個人的価値観ないし信条の問題であるのに対し、後者は社会倫理の問題ですから、この違いは社会政策を考える上でも重大はずなのですが、こういうアンケートを作る人は、そのへんの区別に無頓着な傾向があるようです。

 ぼく自身は、個人的価値観としても、社会倫理としても「妻は家庭を守るべきである」とはまったく思っていないのですが、仮に、個人的信条としてそう思い、それを実践している家庭があったとしても、別に勝手だと思うんですよね。

 なぜなら、世の中には、主婦としては非常に有能であるが、他の仕事にはあまり向いていないという女性もいるはずだし、逆に、仕事では非常に有能であるが、家事や教育に関してはまったく無能という男性もいるはずなので、そういう男女が協力し合う仕組みがあったほうが、社会のためになると思うからです。

 もちろん、主夫としては非常に有能であるが、他の仕事にはあまり向いていないという男性や、仕事では非常に有能であるが、家事や教育に関してはまったく無能という女性だっているかもしれないので、そういう男女がカップルになるもの、社会にとってはいいことかもしれません。

 こういう問題を考えるときに重要なのは、そもそも、社会倫理でしばる必要があることかどうかということなんですよね。つまり、社会現象には、倫理や法律でしばっておかないと、モラル・ハザードを起こして堰を切ったように悪い方向に流れていくような現象と、ほおっておいても、自然によい状態に均衡するような現象があって、前者については倫理をうるさく言う必要もありますが、後者については別にそうでもないからです。ぼくは、この問題に関しては、ほおっておいてもそんなに悪い状態になるとは思えないんですよね。

 もちろん、そういう性役割は選択可能なものなのだ、という意識を広める必要はあったと思うのですが、それが広まってしまえば、後はわざわざどっちかに強制する必要はないし、するべきでもない、というふうにぼくは思うのです。

 このへんの違いを意識した方がいい問題は、他にもいろいろあると思われるのですが、それはまたいずれ。

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ぼくらが宇宙人が大好きだったころ

 もう、遠い昔のことになってしまったような気もしますが、1970 年代後半から 80 年代前半にかけて、ちょっとした宇宙ブームみたいなものがありました。

 ちょっと調べてみると、火星にバイキング探査機が着陸したのが 1976 年、スピルバーグの映画「未知との遭遇」が公開されたのが 1978 年、同じく「E.T.」が 1982 年、カール・セーガンの「コスモス」が 1980 年。

 当時は、カール・セーガンを初めとする著名な学者がまじめにファースト・コンタクトの可能性を論じ、パイオニアボイジャーには宇宙人へのメッセージが搭載され、子供の間では、いまならトンデモの一言でかたづけられそうな UFO 本が大流行といった具合。

 ついでに言えば、この頃は、日本 SF 界にも第三世代の書き手が登場し、「浸透と拡散」などといわれた時期だし、テクノポップが流行したのもこの時期です。

 いまでこそ、理科離れが言われ、松井孝典先生が「なぜタイタンはこんなに話題にならないんだ」と嘆くような状況になっていますが、ほんの 20 年ほどさかのぼると、こんなにみんなが宇宙系の話が大好きだった時代があったわけですよね。

 あれはいったいなんだったのかと考えてみると、思うに、あれはひょっとして、冷戦下の閉塞状況の裏返しだったのではないでしょうか。

 当時は子供だったのであまり自覚はなかったのですが、初期スピルバーグ作品に繰り返し表れる、「心を開けば宇宙人にだって気持ちは通じる」というメッセージ、あれは、戦争をすれば破滅だということがわかっていながら、お互いに人類を何回も滅亡させられるような核をつきつけ合っている世界の現実に対するアンチテーゼであって、だからこそぼくらはあんなに感動したのではないでしょうか。あるいは、そういう状況をやめることのできない人類に対する絶望の裏返しが、宇宙人へのあこがれになったのではないでしょうか。

 一方、この時代の日本は、すでに学生運動も下火になり、高度成長期・学歴社会の中で、どのレールに乗るかで人生がだいたい決まってしまうと言われ、サラリーマンは横並び主義で平穏無事にやっていけた時代でもありました。この身近な世界での平穏と、遠い世界でのカタストロフの予感というアンバランスが、宇宙へのあこがれを生み出した、と言ってはうがちすぎでしょうか。

 正直言って、ぼくは今あらためて「未知との遭遇」や「E.T.」を見直しても、あまりに能天気すぎる気がして、昔ほど素直に感動できないのです。むしろ、宇宙人にでも希望を託さなければやっていけないほど絶望していたのか、と当時の心情を想像することによって感動する、という感じになってしまう。

 ちなみに、アメリカがベトナムから撤退したのは 1973 年、ペレストロイカが始まったのが 1985 年くらい、ベルリンの壁が崩壊したのは 1989 年のこと。

 考えてみれば、ぼくらはあのころ、「明日核戦争が起こって人類が滅亡してもおかしくない」などと脅かされながら毎日けなげにも明るく暮らしていたわけで、これがどれだけ精神的な抑圧になっていたか、というのは、ベルリンの壁が崩壊して始めて気づいたようなところがあると思うのです。

 だから、ぼくは昨今の「9.11 以降世の中は悪くなる一方だ」みたいな論調にちょっと反発するところがあって、ベトナムや中東やアフリカで毎日のように本物の戦争が起こっていた時代や、ベルリンの壁が崩壊したときの気持ちを、ぼくらはもう一度思い出したほうがいいのではないかなあ、とちょっと思ったりするのです。(^^)

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ソフト屋の素朴な感想

 ジャストシステムの「一太郎」や「花子」が特許権侵害で販売禁止を命じられたというニュースは、ソフト屋のはしくれとして、かなり衝撃を受けました。というのも、この判決には、正直どうも納得いかないものを感じるからです。そこで、法律論ではなく、一ソフト屋の素朴な感想として、その違和感を説明してみたいと思います。

 そもそも、問題となっている機能は、バルーンヘルプとかツールチップとかいう名前で、Macintosh にも Windows にも標準で装備されている機能です。この機能がはじめて一般のパソコンユーザーの前に登場したのは、私の知る限り、Macintosh の Mac OS が System 7 になったとき (1991 年) です。

 当時はまだ、CUI 全盛時代で、Windows などはやっと 3.1 が出るかでないかという状態。パソコン界でもようやくオブジェクト指向という言葉が使われ始めたぐらいで、GUI に関しては、ほとんど Apple の独走状態という時代でした。

 今の若い人には信じられないかも知れないけど、そのころはまだ、GUI がほんとうにいいのかということについて、まだ意見が分かれていました。たとえば、「GUI は確かに直感的かもしれないけど、逆に言えば多義性があってあいまいだと言うこと。たとえば、どうやったらウィンドウの形を変えられるかなんて、実際に試してみなければわかりっこない。それが親切なインターフェースと言えるだろうか」みたいな意見があったわけです。

 そもそも、バルーンヘルプという機能は、そういう時代に登場したから新鮮だったわけです。まず、オブジェクトの機能の説明を当のオブジェクト自身にさせる、という発想が斬新でしたし、オブジェクトをクリックしなくても、マウスカーソルがフライバイするだけでもバルーンが表示されるという機能も新しかった。もちろん、その機能がアプリケーションではなく OS 自体に組み込まれているということも重要でした。

 このバルーンヘルプがあると、何も知らない人でも、マウスを闇雲に動かしていれば、ヘルプメッセージがぴょこぴょこ表示されるので、どのオブジェクトに何の機能があるかを、自然に学ぶことができます。したがって、GUI というのは、何も知らない人にとってはとりつく島がない、というような上記の欠点がみごとに解消されるわけです。

 おそらく、このバルーンヘルプというのは、多くのソフト屋が高く評価したに違いないし、だからこそ Windows にも採用されたのでしょう。だから、この機能自体が特許であっても、そんなに違和感は感じません。

 ところが、問題の松下電器の特許を読んでも、少なくともぼくは、バルーンヘルプのような斬新さはあまり感じないのです。なぜかというと、この特許の説明だと、ヘルプを表示する対象はアイコンだけに限定されているし、ヘルプを表示させる前に、いちいちヘルプのアイコンをクリック (実際にはクリックではなく「指定」と書いてあるが) してから、さらに対象となるアイコンをクリックしなければならないからです。

 つまり、この松下の特許には、オブジェクトはすべて自分で自分が何であるかを説明できる、というようなオブジェクト指向的な思想も感じられないし、ユーザーが何も知らなくても、適当にマウスを動かしていれば、自然にシステムについて学べるというふうにもなってないし、そのような機能を実際に OS に実装するにはどのような技術が必要か、ということも何も述べられていないわけです。

 問題となったジャストシステムのソフトは、このバルーンヘルプ (Windows ではツールチップと呼ぶ) の機能をオン・オフにするボタンをつけて、オンになったら、それがわかりやすいようにカーソルの形状を変化させるようにしたら、結果として松下の特許に似たものになってしまったというだけのことなので、これが特許にひっかかるなら、バルーンヘルプやツールチップそのものもアウトだろうと思うのですが、この特許を読む限りは、その技術的な意義には相当な違いがあると感じるのです。

 そもそも、ソフトウェアの世界というのは、互いに他人の作ったものを利用しあうのが当たり前の世界で、たとえば、アプリケーションは OS の機能を利用しているし、特定のアプリケーションを開発する際にも、他のアプリケーションのソースコードや既存のライブラリを利用することにより、開発効率の向上を図るのが常識です。

 したがって、原理的には簡単なことでも、特定のシステムに組み込むのは非常に困難だったりすることは珍しくないのであって、何が斬新で進歩性のある技術かというのは、そういう技術パラダイムの流れとか既存のシステムとの関係とかを抜きにして語れないところがあると思うのです。

 そういう意味で、こんな漠然としたものを特許として成立させてしまい、どんどん拡大解釈を許すと言うことには問題があるのではないだろうか、ということを、まず素朴な感想として言っておきたいです。

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