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認識と差別

 前にも書いたけど、人間の認識能力の限界から、自分に対する自己の認識と、他者からの認識の間には、必然的にずれが生じます。そして、完全な認識というものが不可能である以上、相手に自分をどういう表象として認識させるか、という問題が生じ、自己の認識させたい表象と、他者の認識する表象が一致しないところから、差別という問題が生まれてきます。

 人間は、常に「人間一般」として扱われたいわけでもなければ、常に「ありのままの自分」として扱われたいわけでもないので、何が差別になるかというのは、相手との関係性によって変わってきます。

 たとえば、国家対人間という関係では、多くの人が一律に人間一般として扱われることを望み、黒人だからとか、女性だからとか、なんとか党員やなんとか教徒だからとかで区別されることを望みません。これは、そもそも国家というような巨大かつ抽象的な存在が、一人一人の個性を正しく認識してそれに応じた扱いをすることなどほとんど不可能であり、なおかつ、国家は大きな権力を持っているので、わずかな認識のずれも大きな問題をひきおこすからだと考えられます。

 逆に、親しい友人同士の関係では、多くの人は、ありのままの自分の個性をできるだけ認識されることを望み、人間一般として扱われることを嫌います。これは、長期間関係を継続することより、他者的な視線が自己的な視線に近づくことによってはじめて可能になるものです。

 また、この両者の中間のような現象もあります。たとえば、コンビニの店員さんに品物を頼んだとき、「人間はみな平等だからお前の言うことを聞く義務はない」とか言う人や、逆に、「オレだって人間だからサボりたい日もあるよ」とか言う人はめったにいないわけで、こういう人は、自ら店員という役割を受け入れていて、それ以上もそれ以下も望んでいないわけです。

 あるいは、「自分は女性として扱われていない」と言って怒る人は、「女性」の中の「色気のないブス」というサブカテゴリーで認識されることはもちろん望んでいませんが、かと言って、「人間一般」というより大きなカテゴリーで認識されたいわけでもなく、あくまで「(男女関係の対象としての)女性」というカテゴリーで認識されたいわけです。

 こう書くと、いや私は、ありのままの自分が持つさまざまな属性の一つとして、「女性性」も認識されたいだけだ、と思う人もいるかもしれません。でも、現実の男女関係を見れば、まず異性かどうかで相手をフィルタリングすることからはじまり、つきあっていくうちに、だんだんとすべての個性を認めある関係に近づいていく、という方が多数派だと思いませんか? まあ、いったん友達になってから、たまたま相手が異性だということに気づいて関係を持つ、というようなほのぼのラブコメみたいな人も中にはいるようですが、それはあくまで少数派だと思います。というのも、そのような手順ではカップルができる確率が非常に低くなるからで、女性性が単なる生理学的性質を超えて表象される理由の一つがそこにあるわけです。

 ちなみに、フェミニズムの中にも、ジェンダーをなくそうとする一派と、逆に女性性を賛美し強調する一派がありますが、これも、もともと女性の中には、このように人間一般として認識されたいという欲望と、女性というカテゴリーで認識されたいという欲望の、両方のベクトルがあることの現れかもしれません。

 よく問題になる職場での性差別にも、細かく分析すると 2 種類のパターンがあります。たとえば、社員全員が一律の給料をもらっているのに、女性社員だけが一律に給料が安い、というのは、本来「社員一般」として認識すべきものを、「女性社員」というサブカテゴリーで認識している、ということです。逆に、能力主義の徹底した会社で、同じ能力を持った社員同士の間で女性だけ給料が安い、という場合には、本来「社員個人の能力」として認識しなければならないものを、「女性社員の能力」というより大きなカテゴリーで認識しているわけです。

 ところで、このような現象について、よく「女性は平均して能力が低いという誤った認識が差別の原因になっている」という主張がありますが、これは錯覚で、そのような認識が統計的・科学的に正しかろうが間違っていようが、能力主義の会社で個人の能力をできるだけ正しく評価しようとしないことは誤りなのです。でなかったら、身体障害者のように、公式に障害を認定されている人は、いかに能力があっても差別してよい、ということになってしまうでしょう。

 もちろん、間違った認識よりは正しい認識のほうがいいわけですから、もしあきらかに誤っていることがわかれば、それを正そうとするのはいいことには違いありません。しかし、人間の認識能力に限界がある以上、そのような誤認識が完全になくなることはあり得ない上に、これは、差別問題解消の必要条件ですらなく、逆に、もし認識が正しいことが証明されてしまったら、差別を容認するのか、という話にもなりかねないので、差別と闘う人が、この論点に拘泥することは賢明とは思えません。

 話を元に戻しますが、このように、差別と言う現象は、単に平等に扱わないということだけではなくて、自己の認識させたい表象と異なる表象を、他者が強制的に押し付けるという現象のすべてを含んでいると考えられます。

 中世以前のように、人間関係が固定されていた時代の差別は、この強制が権力によって行われるという形がほとんどだった思うのですが、近代になって、同じ人間同士の関係にも TPO によって異なる役割が持たされるようになると、差別問題ももう一段階複雑になってきます。

 たとえば、現代では、会社では上司と部下の関係であるもの同士が、アフターファイブには友人同士の関係になったり、男と女の関係 (^^) になったり、ということは珍しいことではありません。

 このような関係が流動化した時代になると、自己が認識されたい役割と、他者が認識する役割とのずれも、必然的に起こりやすくなるので、自分が認識されたい役割を、自らコード化して発信する必要が出てきます。たとえば、会社や学校の制服などもそうですし、普段はカジュアルな格好をしているが、仕事のときは背広を着るとか、女性の場合には、職場ではユニセックス的な色気を感じさせない服装をしているが、社交の場ではフェミニンな色っぽい服を着る、というようなことがあります。

 そして、コードというのは、より多くの人が共有ほど便利になるので、いったん社会的に確立されたコードは、必ずみんなが便乗して利用するようになり、コード自体が自律化するという現象が起こります。これは、コードの本来的な性質からそうなるのであって、もちろん、差別に利用されることもありますが、かならず差別につながるわけではありません。

 たとえば、「俺は確かにニンジンとキャベツと何と何を売っているが、自分の好きなものを売っていたらたまたまそうなっただけなので、決して八百屋ではない。だから、俺を絶対八百屋と呼ぶな」みたいな主張をわざわざする人がめったにいないのは、別に誰かに強制されてるからではなくて、そんなことをしても宣伝はしにくいし同業者組合にも入れてもらえないし、不便なだけでほとんど何のメリットもないからにすぎません。

 そして、このような社会的コードのやりとりが一般的になると、今度は、コードの誤認識という新たな問題が生じてきます。たとえば、別にそんな気はないのに、ちょっと開放的な格好をして会社に行ったらセクハラされたとか、逆に、挑発的な格好をしてるのにお目当ての相手が食いついてこないとか(こんな例ばっかりですいません)いうことが問題になります。

 さらに、このようなコードの誤認識もが一般的になると、これを逆に差別に利用する人もでてきます。つまり、わざと挑発されたふりをしてセクハラして居直ったりとか、わざと挑発的な格好をして、「場をわきまえなさい」とか言われると、「それは見るほうの目がヤらしいからです」とか言って逆に相手をイジメたりというような現象が派生してきて、ますます話がややこしくなるわけです。

 かつてような、権力を背景にして特定の役割を一方的に押し付ける、という形の差別は、少なくとも先進諸国では、かなり下火になったと言ってもよくて、現代ではむしろ、このようなコードの誤認識による一種の擬似差別が増えてきています。フェミニストなどがしばしば反発を買うのは、このような悪意のない誤認識と意図的な差別を、区別せずに糾弾したり、本人が自分の意思で選択している役割まで、それは自分の意思だと思いこまされているだけで、そのこと自体が権力の陰謀だとか言ったりするからで、そういうトラブルに疲れた人が、逆に保守化して役割の固定した社会に戻そうとしたりするのも、故のないことではありません。

 したがって、現代のような差別の混迷状況を打破するには、まず、権力をバックにした差別と、コードの誤認識による擬似差別をきちんと区別することが重要です。さらに、擬似差別については、まず、1.洗練されたコードの体系を確立して、社会全体で共有するよう努力すること、2.自分の認識されたい役割を、積極的にコードとして発信するようにすること、3.それでも発生する意図的でないコードの誤認識については、なるべく寛容になること、が必要でしょう。逆に、もっとも避けるべきなのは、自らは何のコードも発信しようとしないのに、誤認識されると、鬼の首をとったように相手を糾弾する、というような態度でしょう。

 ちなみに、ジェンダーというのは、男女関係における性役割、親子関係における性役割、職場における性役割、政治的な性役割などがすべて一体化したものだと考えられます。(間違った?)ジェンダーフリーというのは、この役割をすべてなくすことによって差別を解消しようという発想だと思われますが、これは、八百屋という職業をなくさなければ八百屋差別はなくならないとか、朝鮮文化をなくさなければ朝鮮人に対する差別はなくならないと言っているのと同じぐらい間違った発想だと思います。

 なぜなら、先にものべたように、女性には(もちろん男性にも)、人間一般として認識されたいという欲望と、女性という役割で認識されたいという欲望と、ありのままの自分として認識されたいという欲望のすべてがあるはずで、現代のような流動性の高い社会では、これらを TPO によって使い分けることによって、すべての役割のいいとこどりをすることが可能なはずだからです。

 考えてみれば、現代では中世のような階級制がなくなったと言っても、職場ではやっぱり他人からの命令を受けているわけで、実際に変わったのは、世襲制ではなく自分で職業を選べるようになったことや、職業的な役割はあくまで勤務時間だけで、中世の家来のように 24 時間 365 日体制ではなくなったことだけです。それでも、多くの人が十分に自由になったと感じているのだとすれば、性役割にも同じことが言えるはずです。

 たとえば、政治的な性役割は完全になくしてもかまわないと思うし、職場における性役割も、特にセクシュアリティを売りにする職業を除いては、必要ないでしょう。でも、逆に男女関係における性役割は、まだまだ利用価値が残っているのではないでしょうか。(親子関係については、子供がいないので正直よくわからない(^^))。

 もちろん、伝統的な性役割の時代に合わなくなった部分を修正するのもよいでしょう。ただし、それは権力によってではなく、文化の自律的な進化の流れの中で行われるべきです。なぜなら、そのように自分の意思で選択できる役割と言うのは、権力ではなく文化の産物であって、文化の欠点を正すことは、文化を強制的に消滅させることではなく、よりよい文化を作ることによってのみ可能だからです。もちろん、文化の中から不当な権力が発生して、そこから本来の意味の差別が生まれることもあるので、それは監視しなくちゃいけませんけど。

 そう言えば、テコと呼ぶかコテと呼ぶかは地方によって違うのに、どちらかを強制するのはおかしいとか言っていた人がいましたが、確かに強制する必要はないかも知れませんが、逆に、どちらの名前も教えないとか、まったく別の名前を勝手に作って教えるとかしたら、それは教育ではなく洗脳になってしまうわけです(コードの恣意性というのはそういうものです)。ですから、「進歩的」な教育としてできるのは、せいぜい、現在はコテとテコの二種類の呼び方があることと、それぞれの長所と短所を教えた上で、将来は第三の呼び名が生まれるかもしれない、ということを示唆するぐらいでしかないわけです。もちろん、そういう教育を受けた子供が、大人になってから新しい呼び名を流行らせることはいっこうにかまいません。

 そのような流れの中から生まれた洗練された社会的コード体系があれば、さまざまな役割を自分の好きなように使い分けることが可能になるはずです。そして、そのような社会は、ジェンダーや役割のない社会よりも、はるかに豊かな生をもたらすのではないかと思うのです。

 実は、Amazon.co.jp のレビューで、小倉千賀子さんの本とか、加藤秀一さんの本を酷評したときから、こんなことを考えていたのですが、800 字の制限字数ではとても書ききれなかったので、代わりにここに書いてみた次第です。うまくかけてるといいんですが。

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