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いのちのねだん

 今、小島寛之氏の書いた「確率的発想法」という本を読んでいるのですが、その中に、生命の市場価値、つまり、ぶっちゃけて言えば「いのちのねだん」をどうやって計算すればよいか、という話が出てきます。

 人非人扱いされる前に、なぜそんなものを計算しなくてはならないかをあわてて説明しておくと(^^)、たとえば化学物質などが環境に与える影響を考えるときに、リスクとベネフィットを量的に評価して比較しないと、社会に利益ももたらすけれども同時に危険も与える、というものと、なんの利益もなくて危険だけを与えるものとの間で、優先順位づけが正しくできなくなるからです。したがって、生命のリスクを評価するためには、いのちの値段を計算する必要がある、というわけです。

 著者は、このいのちの値段の計算方法について、先行研究をいろいろとりあげて批判していて、非常に面白いのですが、それは違うのでは、と思うところもいくつかあります。

 たとえば、著者は、中西準子氏の「損失余命」(失われる余命の平均値) を生命リスクの尺度とする考え方について、「4万人の命が 8.8 時間ずつ縮むことと、平均余命 40 年の人が一人死亡することを同列に扱えるだろうか」という批判をしています。

 でも、この問題は、余命と効用の関係を線形だとみなしていることから生まれているのであって、限界効用逓減型の関係を仮定して、損失余命の代わりに余命の効用を尺度にすれば、解決できるのではないでしょうか。

 つまり、上の例で言えば、余命 40 年の人が余命 0 年になる (つまり死亡する) ことの不効用は、39 年と 364 日と 15.2 時間になることの不効用を 4 万倍したものよりはるかに大きい、と考えればよいわけです。この仮定は、おそらく、多くの人の常識的感覚と一致しているのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

 もっとも、平均余命自体が死亡率から逆算されているものだとすると、不効用の平均値はいったいどうやって計算したらよいのか、という問題はあって(^^)、ひょっとすると、著者が本当に言いたいのはそういうことなのかも知れません。でも、だとしても、それは生の一回性というような思想的問題ではなく、技術的な問題と言うべきでしょう。

 さらに、著者は、自動車の与える生命リスクを計算するのに、ホフマン方式と呼ばれるものと、宇沢弘文氏が「自動車の社会的費用」で提唱したものとを比較しています。前者は、「その人が生きていたとしたら稼いだはずの所得」から計算するのですが、宇沢氏は、「もともと決して失われてはならず、法的に保証されているものに、貨幣的な価値などを計上することは原理的に誤っている」と考え、自動車がないのと同レベルのリスクの状態に回復するための費用から計算していて、著者は、この宇沢方式の方を支持します。

 でも、ぼくはこの議論にも論点のすり替えがあるような気がします。つまり、確かに、他人が勝手に人の生命を奪うことは、いくら金を払おうが決して許されないでしょうが、自分の意思で、一定の対価の下に生命のリスクを犯すことは、本人の自由だという面があるはずだからです。

 これはなにも、生命に限らず、普通に市場で取引されているモノだって同じことであって、市場価格と同額の金を置いていけば、所有者の意思を無視してモノを盗んでもいい、ということにはなっていないわけです。モノの価格は市場で決まりますが、特定の所有者がその価格で売るかどうかは本人の勝手なのであって、安物だけど、思い出の品だからいくらもらっても売らない、なんてことはいくらでもあるわけです。

 現実社会では、所有者が生命そのものを売りに出す市場というものは存在しないわけですが、たとえば、格闘家や F1 レーサーやスタントマンを職業に選ぶ人などは、間接的に生命リスクを取り引きをしているのではないでしょうか。そして、そのように所有者が自分の意思で選択する価格を「いのちのねだん」とみなすことは、現在のリベラリズムと整合的なのではないでしょうか。ただ、実際にこれを定量的に計算をしようとすると、直接的な市場がないために、技術的に困難である、ということはあると思うのですが。

 つまり、ホフマン方式の本質的な問題点は、周囲に与える外部効果だけしか計算してなくて (しかも、親しい人たちに与える精神的な影響なども考慮していない)、生命の所有者自身が生命をリスクにさらすことの不効用を計算に入れていない、ということであって、生命のリスクを前提としていること自体ではないのではないでしょうか。

 もともと、このような方法の利点は、できるだけ制約条件を少なくして、自由度の多いパラメータ空間の中で最適解を探せるところにあるのですから、生命のリスクを増やすことを完全に禁じ手にしてしまう (=制約条件にする) のは、ときに自らの意思で生命のリスクを犯すことが許されている社会の中で、必要以上に制約を厳しくして、ローカルミニマムから脱出できない事態を招くことになりはしませんか。

 最も、実際には、環境破壊による生命のリスクというのは、個人が選んで買うことが困難な場合が多いので、平均値とかで評価してしまうと、その人固有の生命リスク評価額より安い価格で強制的に買わされるというようなことが起こりえます。したがって、そういう事態がリベラリズムの原理に照らして不当なのは間違いないでしょう。でもそれは、あくまで本人の意思を無視して強制されるところに問題があるのであって、何があっても生命のリスクを犯してはならない、ということとは違うと思うのですが。

 なんか、ケチばっかりつけてるみたいですが、全体としては、非常に密度高くアイデアがつまっていて、いろんな考えを触発される面白い本です。もうちょっと読みこなしたら、きちんとレビューしてみたいと思います。

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