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認識とアイデンティティ

 人間の認識には、根本的に異なる 2 種類の原理があると思うのです。

 たとえば、人間が見知らぬ人間に出会ったときには、「楕円柱に 4 つの円柱と 1 つの球がくっついた物体が動いているぞ」などとは思わず (仮にそう思ったとしても、網膜に一定時間映った図形を「物体」として認識するというようなパターン認識はすでにして行われているわけですが)、「人間だ」「女性だ」「若い」「歳いくつ?」「お茶のみに行こう」とかいう風になるわけです。

 これは、未知の対象に対して、自分が過去さまざまな対象と出会ったときに蓄積した、「人間」「女性」といった既知のパターンを当てはめていくという一種のパターン認識と言えます。それによって、人間はみな飯を食うので、こいつも飯を食うに違いないとか、いろんな推定が可能になるわけです。(これがまた差別の原因にもなるわけですが、それについては後日再論。)

 一方、人間が自分自身を認識する際には、これとはまったく異なる認識原理が働きます。たとえば、自分が飯を食うと空腹がおさまる、というようなことは、別に他の人間を観察しなくても、自分自身の経験からわかるわけです。

 前者を仮に「他者的視線による認識」、後者を「自己的視線による認識」と呼ぶことにしましょう。(他者的な視線は共時的なパターン認識、自己的な視線は通時的なパターン認識に関係しているような気もするのですが、このへんはまだ考えが詰めきれてないので後日再論。)

 たとえば、ある人の腕が千切れかかっているときに、自分で腕を動かそうとしても動かないから切れている、と考えるのは自己的視線による認識だし、同じような症例を何度も観察している医者が、このように神経が切れている場合はみな腕が動かなくなるから、こいつも動かせないはずだ、と考えるのは他者的視線による認識だということになります。

 もちろん、自分に対してあえて他者的な視線を向けることも可能だし、他者に対して自己的な視線を向けることも可能です。

 たとえば、上の例なら、人間だから飯を食うはずだ、とあえて決め付けずに、ずっと観察を続けることによって、確かに飯を食うということを確認することもできます。あるいは、自分が何を食べるかを決めるときに、他人がおいしそうに食べているから、自分にとってもおいしいはずだ、と判断することもあるわけです。

 そうすると、アイデンティティの問題と言うのは、単に主観と客観を一致させるというような問題ではなくて、この自己的視線による自己認識と、他者的視線による自己認識の間の整合をどうとるか、という問題ではないかと思われるのです。そうすると、この問題は、必然的に、「表現」とか「装う」とか「演技」とかいうキーワードと関わってくるはずです。

 このような考え方は、別に私だけのものではなくて、たとえば、「自己と他者」の R・D・レイン氏などもこう言っています。

「<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己と言うアイデンティティは現実化されるのである。」 

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