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民主主義のブートストラップ (イラクの選挙を見て)

 イラクの選挙の投票率が 60% 程度になりそうだとのことで、投票に行った人もテロで数十人亡くなっているし、スンニ・トライアングル地域ではほとんど誰も投票に来なかったところもあるそうなので、もちろん手放しでは喜べませんが、なんとか選挙を終えられたということや、生命の危険を犯してまで投票に来たイラクの人たちの勇気には、やはり敬意を表したいと思います。

 もっとも、これでブッシュ政権がますます頭に乗るのではないかと思うと、かなり複雑な気持ちなのは確かです。ただ、私たちは、心理的にはブッシュ政権のある種の無能さに救われている面もあって、ブッシュ政権がもっと有能だったら、もっと深刻な思想的な問題に直面していたのではないか、という気もするのです。

 人類の歴史を見ても、「正義」には、絶対的な正義がある、という考え方と、当事者が合意したものが正義である、という考え方の二種類があります。もちろん、合意の正義だって、当事者の絶対的な正義を求める心に根ざしているわけだし、絶対的な正義だって、当事者の合意がなければ効力を発揮しないわけですから、これはどっちの考え方が絶対に正しいというものではなく、相補的なものでししかありません。ただ、歴史の流れを見ると、合意による正統性というものをより重視する方向に進んでいることは確かだと思うのです。

 合意による正義は、まず、法による支配と言う形で成立したと思われますが、現実的に法秩序を維持するためにはなんらかの権力が必要です。そして、この権力が腐敗すると、合意の正義と、各個人の思う絶対的な正義が乖離するという現象が起こります。

 この乖離を是正しようと思ったときに、権力者が諫言とかを聞いてくれればいいのですが、多くの場合には、法によって許されている手段の範囲内でそれができるとは限らないわけです。つまり、正統性の基盤自体を変更しようとすると、正統化できない手段が必要になる、というパラドックスがあって、だからこそ、かつての政権交代の多くは、武力という非道徳的な手段で行われてきたのだろうと思うわけです。

 民主主義というのは、投票という手段を導入することにより、このような政権交代の手段自体までもを正統性の枠内に取り込んで、合意による正義をもう一段階徹底することに成功した制度なわけで、ある意味、この制度の登場によって初めて、あらゆる武力闘争を間違っていると言える道が開かれたのではないかと思うのです。

 ただ、この民主主義にも弱点が残っています。それは、今現在民主主義ではない社会をどうやって民主主義に変えられるか、ということです。民主主義を成立させるには、個人が自分の意思を自由に表明できる社会が必要ですが、このような社会は、単に支配権力がなくなれば成立するというようなものではありません。

 実際に人間社会を何も権力のない状態でほおっておけば、ちょっと腕力の強いヤツとか人気のあるヤツとかが、ヤクザの親分みたいに勝手にどんどん権力を作ってしまうのであって、そういう細かい差異を無視して、あらゆる人間を無理矢理平等とみなすような特殊な権力によって、こういう正統化されない権力を強引に駆逐しなければ、民主主義は成立しないのです。つまり、民主主義を成立させるためには、ある種の倫理の相転移みたいなものが必要だということです。

 フランス革命なんかだって、自分を直接支配している領主は倒してもよいけれど、他人のことにはちょっかいを出すな、みたいなことを言っていたら、成立しなかったはずで、みんなで協力して支配階級を打倒したからこそ成立したわけですね。だから、革命を起こす権利はその民族だけにある、みたいな発想は、ある意味、同じ民族は殺して/助けてもいいけど、他の民族は殺して/助けてはいけないという、民族主義あるいは民族差別みたいな論理を孕んでいるわけで、必ずしも普遍主義ではないわけです。

 そんなわけで、この深刻な矛盾をどう解決するかというのは、原理的にかなり難しい問題だと思うのです。しかし、だからと言って、ブッシュ政権のような方法には問題を感じる人が多いでしょう。だとすれば、私たちはなおのこと、この矛盾を解決する方法を真剣に考えなければならないと思うのです。

 より正統性のある方法として思いつくのは、国連で罰則つきの人権条項みたいなのをどんどん増やしていって、加盟国に民主化をじわじわと強制していくというやり方です。国連への加盟というのは、強制ではなく国家の意思で行われるものなので、この方法はその意味では正統性のある方法だと思います。ただ、実際には、中国やロシアのような国が拒否権を発動する可能性もあるし、国際的村八分を受けながら延々存続している国もありますし、制裁といったって、国家に対する制裁の被害を実際に受けるのは、守るべき当の国民だったりするし、いろんな問題があることは否めません。

 ただ、このような問題に絶対的な切り札はないと思うので、少しでもより穏健かつより正統性のある方法を積み重ねて、より相転移が起こりやすい状態に持っていくしかないと思うのです。そういう意味では、私たちもブッシュ政権をバカにしてばかりはいられません。

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e メールはホントに不安か?

 また、「確率的発想法」の話なんですけど、この「コモン・ノレッジ」の説明ってちょっとおかしくないですか?

 たとえば、電子メールで誰かと待ち合わせの約束をするとき、単に待ち合わせ場所を伝えるだけでなく、「「「「相手が待ち合わせ場所を知っている」ということを自分が知っている」ということを相手が知っている」ということを…」というふうに、無限のメタ認識が成立しないと、その約束は「コモン・ノレッジ」にならない、っていうんですけど。。。

 実は、こういう話は人工知能論とかでもよく出てくるんですよね。たとえば、ゲームのキャラの思考アリゴリズムを設計するときに、敵キャラの動きを読んで、それに応じて動くようなアルゴリズムにする、っていうのはよくあることです。ここで、どうやって敵キャラの動きを読むかを考えたときに、敵キャラの思考アルゴリズムがわかっていれば完全に読めるはずなのですが、その敵キャラの思考アルゴリズムも、相手(つまり自分)の動きを呼んでそれに応じて動くというものだったらどうなるか。

 実際にこのアルゴリズムを動かすと、敵キャラの動きを読む( 自分の動きを読む ( 敵キャラの動きを読む ( … ))) という無限の再帰呼び出しになってしまうわけです。

 ただ、こういう場合、いくら計算が速くても、あるいは、有限の時間内に無限回の計算ができたとしても、このステールメイトが解決する保証ははないような気がするのですが。

 この待ち合わせメールの例でも、両者ともが、「相手が確実に待ち合わせ場所に来るという確信がなければ待ち合わせ場所に行かない」という意思決定方式をとっていて、なおかつ、お互いが相手がそういう意思決定方式をとっている、ということを知っているからこうなるわけで、数列で表せば、

Xn = Xn-1

みたいになっているということでしょう。だから、X0=「行く」なら

Xn = 行く、行く、行く、行く、行く、行く、…

lim Xn = 行く

になるけど、逆に、X0=「行かない」だったら、

Xn = 行かない、行かない、行かない、行かない、行かない、行かない、…

lim Xn = 行かない

になるだけで、別に、無限に繰り返したからって、どう転んでも「行く」方には収束しないと思うんですが。

 だから、これが「行く」方に収束するためには、どちらか一方でも、「相手が来ようがこまいが、行くといった以上は待ち合わせ場所に行く」とか、「相手が来るといったら、それをそのまま信用する」とかいう意思決定方式をとる必要があって、そうすれば、メールのやりとりは数回ですむはずです。

 その後の倒産の例もそうで、別に公的情報かどうかではなく、情報を信用するかしないかの問題じゃないのか? という気がちょっとするのですが。

 たぶん、わかりやすく説明してくれようとして、その分厳密さがなくなっているだけだと思うんですけど、やっぱり、オーマン氏の原典を読まないとだめなのかな(^^)。

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テッド・ターナー VS フォックス・ニュース

 CNN の創始者テッド・ターナーが、かのルパート・マードックフォックス・ニュースをブッシュ政権のプロパガンダだと名指しで批判したとか。さらに、ナチスドイツのヒトラー人気にまで例えたらしいです。

 まあ、みんなが思ってたことではあるんだろうけど(^^)、あのテッド・ターナーが言ったということには、ちょっと意味があるかも。

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ESA と NASA

 「ぼぼ日」で、松井孝典さんが、タイタンに着陸したホイヘンス探査機の意義について話してくれています。松井さんは、タイタンがいまいち話題にならないのは、NASA ではなく ESA がやっているからで、ESA は NASA ほど派手な宣伝をしないので、宣伝にのりやすい日本のマスコミの扱いが違ってしまうのではないか、というお説らしいです。

 でも、この ESA のウェブサイトは、アメリカのサイトとは微妙なセンスの違いが感じられて、結構面白いです。ESA Kids という子供向けのページを見ると、Ann おばさんとかいうみょーに色っぽいおばさんがホイヘンスについて説明している Flash アニメがあったりして (なんでおばさんやねん(^^))、なんとなくヨーロッパ的センスを感じますね。(描いたのはフランス人の漫画家らしい)

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認識と差別

 前にも書いたけど、人間の認識能力の限界から、自分に対する自己の認識と、他者からの認識の間には、必然的にずれが生じます。そして、完全な認識というものが不可能である以上、相手に自分をどういう表象として認識させるか、という問題が生じ、自己の認識させたい表象と、他者の認識する表象が一致しないところから、差別という問題が生まれてきます。

 人間は、常に「人間一般」として扱われたいわけでもなければ、常に「ありのままの自分」として扱われたいわけでもないので、何が差別になるかというのは、相手との関係性によって変わってきます。

 たとえば、国家対人間という関係では、多くの人が一律に人間一般として扱われることを望み、黒人だからとか、女性だからとか、なんとか党員やなんとか教徒だからとかで区別されることを望みません。これは、そもそも国家というような巨大かつ抽象的な存在が、一人一人の個性を正しく認識してそれに応じた扱いをすることなどほとんど不可能であり、なおかつ、国家は大きな権力を持っているので、わずかな認識のずれも大きな問題をひきおこすからだと考えられます。

 逆に、親しい友人同士の関係では、多くの人は、ありのままの自分の個性をできるだけ認識されることを望み、人間一般として扱われることを嫌います。これは、長期間関係を継続することより、他者的な視線が自己的な視線に近づくことによってはじめて可能になるものです。

 また、この両者の中間のような現象もあります。たとえば、コンビニの店員さんに品物を頼んだとき、「人間はみな平等だからお前の言うことを聞く義務はない」とか言う人や、逆に、「オレだって人間だからサボりたい日もあるよ」とか言う人はめったにいないわけで、こういう人は、自ら店員という役割を受け入れていて、それ以上もそれ以下も望んでいないわけです。

 あるいは、「自分は女性として扱われていない」と言って怒る人は、「女性」の中の「色気のないブス」というサブカテゴリーで認識されることはもちろん望んでいませんが、かと言って、「人間一般」というより大きなカテゴリーで認識されたいわけでもなく、あくまで「(男女関係の対象としての)女性」というカテゴリーで認識されたいわけです。

 こう書くと、いや私は、ありのままの自分が持つさまざまな属性の一つとして、「女性性」も認識されたいだけだ、と思う人もいるかもしれません。でも、現実の男女関係を見れば、まず異性かどうかで相手をフィルタリングすることからはじまり、つきあっていくうちに、だんだんとすべての個性を認めある関係に近づいていく、という方が多数派だと思いませんか? まあ、いったん友達になってから、たまたま相手が異性だということに気づいて関係を持つ、というようなほのぼのラブコメみたいな人も中にはいるようですが、それはあくまで少数派だと思います。というのも、そのような手順ではカップルができる確率が非常に低くなるからで、女性性が単なる生理学的性質を超えて表象される理由の一つがそこにあるわけです。

 ちなみに、フェミニズムの中にも、ジェンダーをなくそうとする一派と、逆に女性性を賛美し強調する一派がありますが、これも、もともと女性の中には、このように人間一般として認識されたいという欲望と、女性というカテゴリーで認識されたいという欲望の、両方のベクトルがあることの現れかもしれません。

 よく問題になる職場での性差別にも、細かく分析すると 2 種類のパターンがあります。たとえば、社員全員が一律の給料をもらっているのに、女性社員だけが一律に給料が安い、というのは、本来「社員一般」として認識すべきものを、「女性社員」というサブカテゴリーで認識している、ということです。逆に、能力主義の徹底した会社で、同じ能力を持った社員同士の間で女性だけ給料が安い、という場合には、本来「社員個人の能力」として認識しなければならないものを、「女性社員の能力」というより大きなカテゴリーで認識しているわけです。

 ところで、このような現象について、よく「女性は平均して能力が低いという誤った認識が差別の原因になっている」という主張がありますが、これは錯覚で、そのような認識が統計的・科学的に正しかろうが間違っていようが、能力主義の会社で個人の能力をできるだけ正しく評価しようとしないことは誤りなのです。でなかったら、身体障害者のように、公式に障害を認定されている人は、いかに能力があっても差別してよい、ということになってしまうでしょう。

 もちろん、間違った認識よりは正しい認識のほうがいいわけですから、もしあきらかに誤っていることがわかれば、それを正そうとするのはいいことには違いありません。しかし、人間の認識能力に限界がある以上、そのような誤認識が完全になくなることはあり得ない上に、これは、差別問題解消の必要条件ですらなく、逆に、もし認識が正しいことが証明されてしまったら、差別を容認するのか、という話にもなりかねないので、差別と闘う人が、この論点に拘泥することは賢明とは思えません。

 話を元に戻しますが、このように、差別と言う現象は、単に平等に扱わないということだけではなくて、自己の認識させたい表象と異なる表象を、他者が強制的に押し付けるという現象のすべてを含んでいると考えられます。

 中世以前のように、人間関係が固定されていた時代の差別は、この強制が権力によって行われるという形がほとんどだった思うのですが、近代になって、同じ人間同士の関係にも TPO によって異なる役割が持たされるようになると、差別問題ももう一段階複雑になってきます。

 たとえば、現代では、会社では上司と部下の関係であるもの同士が、アフターファイブには友人同士の関係になったり、男と女の関係 (^^) になったり、ということは珍しいことではありません。

 このような関係が流動化した時代になると、自己が認識されたい役割と、他者が認識する役割とのずれも、必然的に起こりやすくなるので、自分が認識されたい役割を、自らコード化して発信する必要が出てきます。たとえば、会社や学校の制服などもそうですし、普段はカジュアルな格好をしているが、仕事のときは背広を着るとか、女性の場合には、職場ではユニセックス的な色気を感じさせない服装をしているが、社交の場ではフェミニンな色っぽい服を着る、というようなことがあります。

 そして、コードというのは、より多くの人が共有ほど便利になるので、いったん社会的に確立されたコードは、必ずみんなが便乗して利用するようになり、コード自体が自律化するという現象が起こります。これは、コードの本来的な性質からそうなるのであって、もちろん、差別に利用されることもありますが、かならず差別につながるわけではありません。

 たとえば、「俺は確かにニンジンとキャベツと何と何を売っているが、自分の好きなものを売っていたらたまたまそうなっただけなので、決して八百屋ではない。だから、俺を絶対八百屋と呼ぶな」みたいな主張をわざわざする人がめったにいないのは、別に誰かに強制されてるからではなくて、そんなことをしても宣伝はしにくいし同業者組合にも入れてもらえないし、不便なだけでほとんど何のメリットもないからにすぎません。

 そして、このような社会的コードのやりとりが一般的になると、今度は、コードの誤認識という新たな問題が生じてきます。たとえば、別にそんな気はないのに、ちょっと開放的な格好をして会社に行ったらセクハラされたとか、逆に、挑発的な格好をしてるのにお目当ての相手が食いついてこないとか(こんな例ばっかりですいません)いうことが問題になります。

 さらに、このようなコードの誤認識もが一般的になると、これを逆に差別に利用する人もでてきます。つまり、わざと挑発されたふりをしてセクハラして居直ったりとか、わざと挑発的な格好をして、「場をわきまえなさい」とか言われると、「それは見るほうの目がヤらしいからです」とか言って逆に相手をイジメたりというような現象が派生してきて、ますます話がややこしくなるわけです。

 かつてような、権力を背景にして特定の役割を一方的に押し付ける、という形の差別は、少なくとも先進諸国では、かなり下火になったと言ってもよくて、現代ではむしろ、このようなコードの誤認識による一種の擬似差別が増えてきています。フェミニストなどがしばしば反発を買うのは、このような悪意のない誤認識と意図的な差別を、区別せずに糾弾したり、本人が自分の意思で選択している役割まで、それは自分の意思だと思いこまされているだけで、そのこと自体が権力の陰謀だとか言ったりするからで、そういうトラブルに疲れた人が、逆に保守化して役割の固定した社会に戻そうとしたりするのも、故のないことではありません。

 したがって、現代のような差別の混迷状況を打破するには、まず、権力をバックにした差別と、コードの誤認識による擬似差別をきちんと区別することが重要です。さらに、擬似差別については、まず、1.洗練されたコードの体系を確立して、社会全体で共有するよう努力すること、2.自分の認識されたい役割を、積極的にコードとして発信するようにすること、3.それでも発生する意図的でないコードの誤認識については、なるべく寛容になること、が必要でしょう。逆に、もっとも避けるべきなのは、自らは何のコードも発信しようとしないのに、誤認識されると、鬼の首をとったように相手を糾弾する、というような態度でしょう。

 ちなみに、ジェンダーというのは、男女関係における性役割、親子関係における性役割、職場における性役割、政治的な性役割などがすべて一体化したものだと考えられます。(間違った?)ジェンダーフリーというのは、この役割をすべてなくすことによって差別を解消しようという発想だと思われますが、これは、八百屋という職業をなくさなければ八百屋差別はなくならないとか、朝鮮文化をなくさなければ朝鮮人に対する差別はなくならないと言っているのと同じぐらい間違った発想だと思います。

 なぜなら、先にものべたように、女性には(もちろん男性にも)、人間一般として認識されたいという欲望と、女性という役割で認識されたいという欲望と、ありのままの自分として認識されたいという欲望のすべてがあるはずで、現代のような流動性の高い社会では、これらを TPO によって使い分けることによって、すべての役割のいいとこどりをすることが可能なはずだからです。

 考えてみれば、現代では中世のような階級制がなくなったと言っても、職場ではやっぱり他人からの命令を受けているわけで、実際に変わったのは、世襲制ではなく自分で職業を選べるようになったことや、職業的な役割はあくまで勤務時間だけで、中世の家来のように 24 時間 365 日体制ではなくなったことだけです。それでも、多くの人が十分に自由になったと感じているのだとすれば、性役割にも同じことが言えるはずです。

 たとえば、政治的な性役割は完全になくしてもかまわないと思うし、職場における性役割も、特にセクシュアリティを売りにする職業を除いては、必要ないでしょう。でも、逆に男女関係における性役割は、まだまだ利用価値が残っているのではないでしょうか。(親子関係については、子供がいないので正直よくわからない(^^))。

 もちろん、伝統的な性役割の時代に合わなくなった部分を修正するのもよいでしょう。ただし、それは権力によってではなく、文化の自律的な進化の流れの中で行われるべきです。なぜなら、そのように自分の意思で選択できる役割と言うのは、権力ではなく文化の産物であって、文化の欠点を正すことは、文化を強制的に消滅させることではなく、よりよい文化を作ることによってのみ可能だからです。もちろん、文化の中から不当な権力が発生して、そこから本来の意味の差別が生まれることもあるので、それは監視しなくちゃいけませんけど。

 そう言えば、テコと呼ぶかコテと呼ぶかは地方によって違うのに、どちらかを強制するのはおかしいとか言っていた人がいましたが、確かに強制する必要はないかも知れませんが、逆に、どちらの名前も教えないとか、まったく別の名前を勝手に作って教えるとかしたら、それは教育ではなく洗脳になってしまうわけです(コードの恣意性というのはそういうものです)。ですから、「進歩的」な教育としてできるのは、せいぜい、現在はコテとテコの二種類の呼び方があることと、それぞれの長所と短所を教えた上で、将来は第三の呼び名が生まれるかもしれない、ということを示唆するぐらいでしかないわけです。もちろん、そういう教育を受けた子供が、大人になってから新しい呼び名を流行らせることはいっこうにかまいません。

 そのような流れの中から生まれた洗練された社会的コード体系があれば、さまざまな役割を自分の好きなように使い分けることが可能になるはずです。そして、そのような社会は、ジェンダーや役割のない社会よりも、はるかに豊かな生をもたらすのではないかと思うのです。

 実は、Amazon.co.jp のレビューで、小倉千賀子さんの本とか、加藤秀一さんの本を酷評したときから、こんなことを考えていたのですが、800 字の制限字数ではとても書ききれなかったので、代わりにここに書いてみた次第です。うまくかけてるといいんですが。

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こんどはあややですか。。。

 ぜんぜん知らんかったけど、あややの年齢詐称疑惑とかいうのがあったんですね。(^^)

 別にあややにはなんの義理もないですが、最近のインターネットは変な陰謀説が流行りすぎててちょっとウンザリですね。マスコミはインチキだって攻撃するのもだいたい同じパターンだし。

 ぼくだってマスコミがそんなに公正中立だとは思ってませんが、なんかちょっとバランスを欠いているような気がしますね。一昔前とくらべると、政治家・マスコミ・市民相互の距離関係がかなり変わってしまったようで。ヒマを見てちょっと研究して見ようっと。(^^)

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「法と経済学」的に考えると

 森ビル回転ドア事故で、森ビル側の関係者が書類送検されたそうですが、この事件に対するちまたの意見は結構割れているようですね。

 こういうのを「法と経済学」的に考えると、どちらの責任にすれば、社会的費用が最小になるかが問題になるんですね。

 つまり、子供のしつけを厳しくしたり子供と歩くときには親が十分な注意を払ったり、というような手段で事故を回避するのにかかる費用と、ビル側が回転ドアに安全対策をして事故を回避する費用のどちらが小さいかによって、安く済むほう (これを、最安価損害回避者という) の対策をとったほうが、社会全体としては得をする、という発想をするわけです。

 このとき、もし、事故の前に加害者と被害者が取り引きをすることが可能で、その取り引き費用がゼロであるならば、どちらの責任にしたとしても、事前に取り引きが行われて、社会的費用最小の状態が実現する、という定理があって、これをコースの定理といいます。

 しかし、現実にはこのような取り引きが可能であるとは限らないので、そのときには、加害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任ありとし、被害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任なしとすればよい。そうすれば、ビル側も、簡単にできて効果の高い対策は進んでするようになるだろうし、歩行者側も、簡単にできる注意はするようになる。したがって、社会的費用最小の状態が実現する、というのが「法と経済学」的な解答になるわけです。

 こういう見方をすると、価値観の対立を相対化しつつ、いろんな方法を定量的に比較でき、いい意味での折衷案が作れるのがいいところだと思うのですね。(もちろん過信は禁物ですが)

 ただ、実際にはどちらが最安価損害回避者であるかはっきりしない場合も多く、また、情報や経済力の非対称性とか外部効果の有無とかを考慮に入れると、無過失責任という立場をとった方がよい場合もあるそうです。

 この事件の場合も、目分量で考えると、どちらが最安価損害回避者であるか、結構微妙な感じがするので、無過失責任として考えたほうがいいのでは、という気もしますが、専門外で情報も不足しているので、これ以上は踏み込まないことにします。

 参考文献:「「法と経済学」入門」小林 秀之 、神田 秀樹著

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iTMS が日本でも使える?

 Apple が出している iTunes という音楽再生ソフトがあって、これ自体は日本でも使えるのですが、このソフトと連動するようになっている iTunes Music Store (iTMS)という音楽のダウンロード販売サイトは、日本からアクセスしても購入できないようになっていました。

 iTunes と iTMS を連動させると、非常に快適な音楽生活が送れるようになる、と風の噂に聞いていたので、これまでずっと悔しい思いをしていたのですが、今日コンビニで見つけた「週刊アスキー」の 2005 年 2 月 8 日号には、なんと、日本から iTMS を利用する方法が書いてあるではありませんか。

 まだ試してないのですが、ざっと目を通したところでは、iTMS カードというプリペイドカードを使うのがミソらしいです。Google で検索すると、このプリペイドカードをユーザー有志で共同購入する計画が、去年の中ごろから進行したようです。みなさん、がんばっていたんですねー。うるうる。(^^)

 こうなったら、誰か、Realplayer Music Storeを合法的に利用する方法も考えてくれないかしら。(^^)

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自衛隊ってそういう意味だったのか

 日垣隆氏のやってる「ガッキィファイター」という有料メルマガの 1 月 23 日号に出てた、「イラクの自衛隊」の定義というのが、ちょっと面白かったです。

「これがほんとの自衛隊だ!」という自虐的冗句を先日、防衛庁で聞いた。

 これ以上の引用はフェアじゃないの思うので、知りたい人はメルマガ会員になりましょう。(^^)

 (はなしの持っていき方によっては、会費をまけてくれることもあるみたい。)

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いのちのねだん

 今、小島寛之氏の書いた「確率的発想法」という本を読んでいるのですが、その中に、生命の市場価値、つまり、ぶっちゃけて言えば「いのちのねだん」をどうやって計算すればよいか、という話が出てきます。

 人非人扱いされる前に、なぜそんなものを計算しなくてはならないかをあわてて説明しておくと(^^)、たとえば化学物質などが環境に与える影響を考えるときに、リスクとベネフィットを量的に評価して比較しないと、社会に利益ももたらすけれども同時に危険も与える、というものと、なんの利益もなくて危険だけを与えるものとの間で、優先順位づけが正しくできなくなるからです。したがって、生命のリスクを評価するためには、いのちの値段を計算する必要がある、というわけです。

 著者は、このいのちの値段の計算方法について、先行研究をいろいろとりあげて批判していて、非常に面白いのですが、それは違うのでは、と思うところもいくつかあります。

 たとえば、著者は、中西準子氏の「損失余命」(失われる余命の平均値) を生命リスクの尺度とする考え方について、「4万人の命が 8.8 時間ずつ縮むことと、平均余命 40 年の人が一人死亡することを同列に扱えるだろうか」という批判をしています。

 でも、この問題は、余命と効用の関係を線形だとみなしていることから生まれているのであって、限界効用逓減型の関係を仮定して、損失余命の代わりに余命の効用を尺度にすれば、解決できるのではないでしょうか。

 つまり、上の例で言えば、余命 40 年の人が余命 0 年になる (つまり死亡する) ことの不効用は、39 年と 364 日と 15.2 時間になることの不効用を 4 万倍したものよりはるかに大きい、と考えればよいわけです。この仮定は、おそらく、多くの人の常識的感覚と一致しているのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

 もっとも、平均余命自体が死亡率から逆算されているものだとすると、不効用の平均値はいったいどうやって計算したらよいのか、という問題はあって(^^)、ひょっとすると、著者が本当に言いたいのはそういうことなのかも知れません。でも、だとしても、それは生の一回性というような思想的問題ではなく、技術的な問題と言うべきでしょう。

 さらに、著者は、自動車の与える生命リスクを計算するのに、ホフマン方式と呼ばれるものと、宇沢弘文氏が「自動車の社会的費用」で提唱したものとを比較しています。前者は、「その人が生きていたとしたら稼いだはずの所得」から計算するのですが、宇沢氏は、「もともと決して失われてはならず、法的に保証されているものに、貨幣的な価値などを計上することは原理的に誤っている」と考え、自動車がないのと同レベルのリスクの状態に回復するための費用から計算していて、著者は、この宇沢方式の方を支持します。

 でも、ぼくはこの議論にも論点のすり替えがあるような気がします。つまり、確かに、他人が勝手に人の生命を奪うことは、いくら金を払おうが決して許されないでしょうが、自分の意思で、一定の対価の下に生命のリスクを犯すことは、本人の自由だという面があるはずだからです。

 これはなにも、生命に限らず、普通に市場で取引されているモノだって同じことであって、市場価格と同額の金を置いていけば、所有者の意思を無視してモノを盗んでもいい、ということにはなっていないわけです。モノの価格は市場で決まりますが、特定の所有者がその価格で売るかどうかは本人の勝手なのであって、安物だけど、思い出の品だからいくらもらっても売らない、なんてことはいくらでもあるわけです。

 現実社会では、所有者が生命そのものを売りに出す市場というものは存在しないわけですが、たとえば、格闘家や F1 レーサーやスタントマンを職業に選ぶ人などは、間接的に生命リスクを取り引きをしているのではないでしょうか。そして、そのように所有者が自分の意思で選択する価格を「いのちのねだん」とみなすことは、現在のリベラリズムと整合的なのではないでしょうか。ただ、実際にこれを定量的に計算をしようとすると、直接的な市場がないために、技術的に困難である、ということはあると思うのですが。

 つまり、ホフマン方式の本質的な問題点は、周囲に与える外部効果だけしか計算してなくて (しかも、親しい人たちに与える精神的な影響なども考慮していない)、生命の所有者自身が生命をリスクにさらすことの不効用を計算に入れていない、ということであって、生命のリスクを前提としていること自体ではないのではないでしょうか。

 もともと、このような方法の利点は、できるだけ制約条件を少なくして、自由度の多いパラメータ空間の中で最適解を探せるところにあるのですから、生命のリスクを増やすことを完全に禁じ手にしてしまう (=制約条件にする) のは、ときに自らの意思で生命のリスクを犯すことが許されている社会の中で、必要以上に制約を厳しくして、ローカルミニマムから脱出できない事態を招くことになりはしませんか。

 最も、実際には、環境破壊による生命のリスクというのは、個人が選んで買うことが困難な場合が多いので、平均値とかで評価してしまうと、その人固有の生命リスク評価額より安い価格で強制的に買わされるというようなことが起こりえます。したがって、そういう事態がリベラリズムの原理に照らして不当なのは間違いないでしょう。でもそれは、あくまで本人の意思を無視して強制されるところに問題があるのであって、何があっても生命のリスクを犯してはならない、ということとは違うと思うのですが。

 なんか、ケチばっかりつけてるみたいですが、全体としては、非常に密度高くアイデアがつまっていて、いろんな考えを触発される面白い本です。もうちょっと読みこなしたら、きちんとレビューしてみたいと思います。

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レッシグ VS ゲイツ

 なんか、レッシグたんがゲイツたんに失望しているようです。(^^)

 内容の是非はさておき、アメリカではいまだに communist という言葉が悪の権化みたいに使われるのはどーかと思います。

 まあ、日本にもウヨとかサヨとかうるさい人もいるから、人のこと言えないか。(^^)

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探しにくい電子書籍

 あえて言い切ってしまいますが(^^)、本というものの最大の欠点は、場所をとることです。私は、もともと読書オタク的なところもあるのですが、仕事上の資料としても必要な本がたくさんあるので、どうしても部屋中に本が溜まっていくことになります。そんなわけで、電子書籍、あるいは、eBook というものの普及には結構期待しているのです。

 ところが、この電子書籍というヤツ、登場して以来、何度もブレイクするするといわれながら、今ひとつブレイクしない。理由としては、いま一つ読みやすくて使い勝手のいい端末がないとか、フォーマットの不統一とかいろいろあると思うのですが、ここでは、検索のしにくさという問題をとりあげてみたいと思います。

 まず、電子書籍には、従来の書籍のような統一されたデータベースがありません。おそらく、書籍の販売点数だけで言えば、老舗のパピレス (投稿時点で 12,985 点) が一番だと思うのですが、どういうわけか、ここには、電子文庫パプリ(投稿時点で 6,278 点) では売っている筑摩書房の本とか、ebookJapan (投稿時点で 6,990 点) とかで売っている平凡社の本とかが見当たりません。Digipa (投稿時点で 6,443 点) にはどういうわけか翔泳社の本が見当たりませんし、ビットウェイブックス (投稿時点で 9,176 点) には岩波書店の本がありません。これがまだ、普通の書店のように、得意分野で分かれているならいいのですが、電子書籍の場合には、どの本がどこの店にあるのか、実際に探してみないとほとんど見当がつきません。

 したがって、ある本が電子書籍で出ているかどうかを確認しようと思ったら、結局、あっちこっちのサイトを検索して回らなくてはなりません(まあ、一括検索用のスクリプトとかを書いちゃえばいいんですけどね)。その上、どの書店も、紙の書籍を売っているオンライン書店に比べると、書籍の分類が大雑把だったりして、基本的に探しにくいという問題もあります。そんなわけで、紙の書籍を買ってしまった後で、電子書籍版が出ていることに気づいてがっかりするということがしばしばです。

 ちなみに、洋書の電子書籍の場合だと、主なフォーマットが Adobe ebookMicrosoft Reader の 2 種類に絞られていて、それぞれ、一括で検索できるサイト (Adobe eBooksMicrosoft Reader) があるし、Amazon.com なんかだと、通常の紙の書籍を検索したときに、電子書籍バージョンがあればいっしょに表示してくれるので、見落とすこともありません。(もっとも、紙の書籍に比べると分類が大雑把なのは日本といっしょ)

 個人的には、電子書籍固有の問題以前に、このへんの使いにくさが電子書籍に普及を阻んでいるような気がしてなりません。ぎょうーかい的な事情があるのかなんか知りませんけど(^^)、こういうのは、電子書籍でも紙の本と同じようにできるはずのことなので、ぜひなんとかしてほしいです。

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統計的事実認定

 よく、不確かな証拠をいくら積み上げてもムダだ、というようなことを言う人がいますが、このような論法は、特定の個人の殺人事件については言えるかもしれないが、集団虐殺のような事件については言えない、ということを統計的に示してみたいと思います。

 たとえば、殺人の目撃証言が 100 件あったとして、一つ一つの目撃証言の信頼性が 80% だった、つまり、本当である確率は 8 割で、2 割の確率でウソだとします。この場合、実際に殺された人数は、何人ぐらいだと言えると思いますか。

 このような現象は、統計的には二項分布という分布で表すことができて、

  • <殺された人数の平均値> = 100 × 0.8 = 80 人
  • <殺された人数の標準偏差> = SQRT( 100 × 0.8 × ( 1 - 0.8 ) ) = 4 人

というふうに計算できます。この分布をグラフで表すと、下図のようになり、

殺された人数は 70 ~ 90 人の間であるということが、99% の確率でいえます。

 ここで、目撃証言の信頼性がもっと低くて、たとえば 20% だったとすると、

  • <殺された人数の平均値> = 100 × 0.2 = 20 人
  • <殺された人数の標準偏差> = SQRT( 100 × 0.2 × ( 1 - 0.2 ) ) = 4 人

となり、殺された人数は 10 ~ 30 人の間であるということが、やはり 99% の確率でいえます(下図参照)。

 ここで注意しなくてはならないのは、この例の場合、一つ一つの目撃証言の信頼性は、半分以下で、ウソである確率の方がはるかに高いということです。したがって、個々の目撃証言から個別に殺人を立件しようとしても、一つも成功しないでしょう。にも関わらず、全体としては、 10 ~ 30 人の人間が殺されたに違いない、ということは、ほぼ確実に言えるのです。これが、統計的思考の面白いところです。

 このことは、集団虐殺事件の立証には、個人的な殺人事件の立証とは異なる発想が必要かもしれない、ということを示しています。

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誰の金だと思っているのだ

 地方自治体がいかにシステム開発に無駄金をかけてるかを描いた、18 日の「クローズアップ現代」、「自治体 vs IT ゼネコン」は結構衝撃的でしたね。

 個人的には、役所と取り引きしたことはないのですが、漏れ聞く情報からすると、きっとそんな感じなんだろう、と想像してはいました。でも、実態は想像よりはるかにひどかったですね。

 いまどき、たいしたシステムでもないのに、高価なメインフレームを使っているのも驚きなのですが、ソースコードのライセンスを開発企業に握られてて、他の企業にメンテを依頼することもできず、相手の見積もりを鵜呑みにするしかない状態で、もう、オープンソースオープンアーキテクチャインターオペラビリティといった技術トレンドに、あらゆる意味で逆行しているから、コストがかさむのはあたり前。あぜーん。

 あえて断言しないけど、業界人の感覚として言わせてもらえば、そんなのどーせ、何分の一かの値段で、中小ソフトハウスに丸投げしてるだけだと思うんだよねー(^^)。

 もし、業者からリベートとかもらってるんだったら、もう論外ですが、たとえ善意でやってたとしても、民間企業でそんなに相手の言うことばっか鵜呑みにしてたら、即 IT 担当者失格ですよね。そんなピンハネさせるために税金払っているわけじゃないんだからさー、少しはコスト削減意識を持ってくださいよー。ホント、頼みますよー。(^^)

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やっぱり「次はイラン」?

 ブッシュ政権はやはりイランとの戦争を狙っているらしい、というニューヨーカーの記事が出ています。筆者は、ピューリッツァ賞受賞者にして、ベトナム戦争におけるソンミ村虐殺や、イラク戦争におけるアブ・グレイブ囚人虐待のスクープで有名なシーモア・ハーシュホワイトハウス側は、これを「極めて不正確な記事」だと言っているそうです。

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進化論は結果論

 去年の NHK 特集の中では、やはり、「地球大進化」が抜群に面白かったと思います。

 ひょっとしたらこの番組も、まだ定説になっていない珍説を紹介しているとかなんとか批判されることになるのかも知れませんが、こういう分野の番組では、そういうことにあまり目くじらをたてる必要はないと思うのです。見てる方だって、現実生活に役立てようと思って見ているわけではなく、あくまで科学エンターテイメントですからね。いちおう定説ではないという断り書きさえ入れておけば、OK ではないかと思っています。

 むしろ、ぼくが気になったのは、ちょっと説教臭いところで、「繁栄こそが滅びの前段階だ」みたいなメッセージがあるところ。

 そもそも、種の「繁栄」という概念も定義が難しくて、個体数だけで言えば、人間より多い種はいっぱいいそうだし、恐竜だって別に一つの種ではなく、いろんな種類の大型爬虫類の総称だし。だいたい、繁栄している種というのは、現在の環境にもっともよく適応している種なんだから、環境が変化したときに最も大きな打撃を受けるのは当然とも言えますし。

 それ以前に、そもそも、人間の歴史から教訓を引き出すのと同じように、生物の歴史から教訓を引き出せるだろうか、という疑問もあるんですね。なぜかというと、人間の歴史を支配しているのは、基本的に人間の意思決定であるのに対し、生物の歴史を支配しているのは進化の法則だから。

 よく進化論というのは「適者生存」の論理だと言われるんだけど、この言い方はちょっとミスリーディングで、これだと、なんか生物が自分の意思で環境に適応しようとしていて、うまく適応した種が生き残る、みたいな印象を与えるんだけど、実際には、進化の原動力は突然変異であって、個体の意思とは無関係なんですよね。だから、むしろ、結果的に生存したものが適者と呼ばれるんだ、と言うほうが実態に近くて、そういう意味では、進化論というのは結果論だと思うんです。

 実際に繁栄していた恐竜が、傲慢になって哺乳類イジメみたいなことをしていたとも思えないですが、仮に傲慢にならず謙虚な恐竜たちだったとしても、気候の変化に合わせて自分の遺伝子を変化させる、なんてことはそもそもできなかったはずですからね。だから、もし教訓を引き出すとしても、種の環境に対する適応のメカニズムを研究して、それを社会システム構築に応用するとか、そういうことしかできないと思うんです。

 しっかし、生物って言うのは、あれだけ過酷な環境変化の中でも生き残れるのに、なんで異星には生物が見つからないんでしょうねえ。生物って言うのは、誕生するまでが大変で、その後生き残るのは割と簡単ということでしょうか。もっとも、私の異星生命体に関する知識は、ドレークの式ぐらいで止まっているので、現在の理論水準だとどうなるのか、さっぱりわかりませんが(^^)。タイタンに生命の痕跡が見つかったりしないのかなあ。

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米極右評論家吼える

 最近、アメリカのサブカル保守派みたいなのに興味があって (どんな興味かは言わないけど)、デビット・ブロック氏のやっている「Media Matters for America」というサイトをよくチェックするのだけれど、そんな極右評論家の一人、アン・カルターが新春早々吼えまくったらしいです(^^)。これ、けっこう笑える (笑えないか) ので訳してみました。かなり誇張した訳だけど、だいたいこんな感じだと思うんだよね。仕事じゃないのでチェックもいい加減です(^^)。間違ってたら教えてください。

  • カルターさんの見方だと、いったいどうなったら、 (イラクへの) 侵略が間違っいだったってことになるんですか?
  • それはいい質問ね。私だって、もし、米軍が何もしないでほっつき回ってるだけで、その結果、イラク全体がファルージャみたいになってしまったら、失敗だ、時間の無駄だったって思ったでしょうよ。でもこれは戦争なのよ。だったら勝つしかないわよ。結局その街 (ファルージャか?) を制圧しさえすればいいんだから。もし米軍が誰も殺さずにパトロールしてるだけで、6、7 年も決着がつかないなんてことになったらどうするの? もう「民間人の犠牲者」って言葉にはウンザリだわ。私は、全世界への見せしめとして、アメリカは今すぐ北朝鮮を核攻撃するべきだと思うわ。
  • では、北朝鮮に核爆弾を落としたら、次はどこの国を侵略すればいいんですか?
  • イランかしらね。もっとも、イランはイラクよりはマシだけど (誤訳かも(^^))。でも、たぶん必要ないでしょうね。私が北朝鮮を核攻撃しろって言うのは、オルブライト前国務長官がステキな和平協定を結んだにもかかわらず、彼らがその 6 秒後には大慌てで核兵器を作り出したからよ。北朝鮮の脅威はバカにならないわ。私は、純粋に世界への見せしめとして、北朝鮮を核攻撃したら面白いと思うの。
  • その次は、メッカなんていかがでしょうか?
  • 真面目な話、中東の他の国は、アフガニスタンとイラクの次ぐらいね。あいつらみんなブッシュの手下みたいなもんだから、アメリカが本気だってことをわかってるはずよ。アメリカには、いくらリベラルの連中がギャアギャア騒ごうが、ニューヨークタイムズの投書マニアがアメリカの恥だと言おうが、断固信念を貫くことのできる大統領がいるんだから。
  • カルターさんは、ホントはヒラリー・クリントンが好きなんじゃないですか?
  • うーん、そうじゃないわ。ジョン・ケリーもそうだけど、私は、他人の威光で成り上がろうとする奴なんかに興味ないわ。ヒラリーはフェミじゃないように見えるけど、ホントはフェミよ。フェミニストっていうのは、みんな「私は強い女なの」っていうフリをするんだけど、ホントはひ弱でミジメな奴らなの。
  • ビル・クリントンについて、忘れてはならないのは何だと思います?
  • そうね、「彼はステキな強姦魔でした」ってことかしら。これだけは忘れてはならないと思うわ。
  • 黒人保守派についてはどう思いますか?
  • ゲイの結婚論議が盛んなころにテレビに出ていた黒人の保守派は、よく「ホモなんて地獄に落ちろ!」みたいな、白人の保守派ですら言わないことを言ってたわ。それを見て、私は、黒人を保守派にできれば、アン・カルター軍団ができるようなものだって気づいたの。彼らは、PC (差別語狩りみたいなもの) なんか屁とも思っちゃいないわ。面白いでしょ。それでいて、彼らはまぎれもなく保守なんだもの。私は、黒人保守派に講演することになってるの。これは、私の今年唯一の無料講演だって決めてるんだけど、黒人教会でゲイの結婚について講演するのよ。彼らは変な理論にかぶれたりしないからね。実は、ゲイの結婚に一番反対してるのは、黒人、ヒスパニック、高齢者、ブルーカラー、つまり、民主党を支えている 4 大支持層なの。
  • ニューヨークでは、クリスマスをどのように過ごしましたか?
  • あら、今年のクリスマスは楽しかったわ。だって、「メリークリスマス」って言うだけで、「クソッタレ」って言うのと同じことになるんだもの。もう誰にでも「メリークリスマス」って言ったわ。タクシーの運転手やその辺の通行人まで、相手かまわずね。そうすると、みんなは「ハッピーホリデー」って応えるの。だから、ニューヨークで「メリークリスマス」っていうのは、すっごく挑発的な行為なのよ。

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TSUNAMI

 と書くとサザンの歌みたいですけど、英語圏では津波を正式にこう呼ぶことにしたらしいですね。

 もっとも、Britanica なんかには、以前から、

The term tidal wave is more frequently used for such a wave, but it is a misnomer, for the wave has no connection with the tides.

(このような波に対して、よく「tidal wave」という言葉が使われるが、津波は tide (潮汐) とは関係ないので、これは誤用である。)

と書いてありましたし、"Children's Illustrated Encyclopedia" なんていう子供用の百科事典にすら、

Tsunami, which are often wrongly called tidal waves,...

なんて書いてあるので、私は、NHK の副音声が「tidal wave」という度に、「それは誤用だ!」といらぬツッコミをしていたのですが(^^)、最近では CNN、や BBC のようなメディアも TSUNAMI と呼ぶようになったようです。

 きっと、一部のインテリが勝手にそう呼んでいるだけで、一般には定着しない用語だったんでしょうね。(^^)

 日本の英和辞典だと、研究社のリーダーズなんかは、「《俗に》大津波」と「《俗に》」をつけて区別しているようですが、大修館のジーニアス改訂版なんかだと、まだ特に区別していないようです。

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日本語は進化する…かな?

日本語は進化する」加賀野井秀一

 この本は、前半と後半ではかなり出来が違うように思います。

 本書の前半では、標準語や言文一致体の成立の過程を、歴史的な資料をふんだんに使って実証的に示していて、こっちが無知なせいもあるんでしょうけど、極めて面白かったです。

 標準語成立以前の国語分裂状態も、正直、この本を読んではじめて具体的なイメージが沸きましたし、言文一致体というのが、単に口語体で文章を書いたというような安易な話ではなく、話し言葉と書き言葉のイイトコドリをしようという苦労の末に生まれたものである、という事実も初めて知りました。また、当時の翻訳者は、日本語を豊かにするために、あえて直訳体で翻訳をしていた、と言う話も、翻訳を業とする者としては考えさせられるものがありました。

 ところが、後半の、日本語の外国語と比べての特性とか、将来の進化の方向性を論じる段になると、強引な論法が増えてきて、加速度的につまらなくなっていきます。

 たとえば、「蠱惑的」な日本語という話は、言霊理論をちょっとひねっただけとしか思えないし、現代の若者批判の部分は、それこそ陳腐な「クリシェ」そのもので、生理的な嫌悪感という以上の説明になっていないし、日本語と英語の論理性を比較している部分は、英語の例文が恣意的で、副詞や前置詞を挿入すればもっとわかりやすくなるはずと思ってしまうし、女性言葉の話は、欧米のフェミニストに比べて議論のレベルが低いとか言うわりには、自分の主張は情意表現を残しつつニュートラルにする、というような折衷案みたいなものでしかないし…。

 唯一素直に納得したのは、敬語が、上下関係を示すものから、距離感を示すものになるという話ですが、これだって橋本治氏をはじめ多くの人が言っていることだし、英語の敬意表現を見ればだいたい想像がつくことです。

 そんなわけで、正直、前半だけでやめときゃいいのに、と思いましたが、少なくとも前半は滅法面白かったので、星4つにします。

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研究開発というリスク投資

 例の青色ダイオードの和解のニュースを見て思ったのですが、この問題の難しいところは、企業内での発明の場合、発明に対する、技術者の努力や才能の「寄与度」みたいなものを数値化するのが難しい、ということですよね。

 こういう問題は、どちらかが総取りするのが正しい、というような答えにはなりっこないので、ステークホルダーが協力関係を維持できるような分配方法を考えるしかないわけです。

 たとえば、簡単のために、ステークホルダーが資本家と技術者の 2 人しかいないとすると、

  1.  資本家が投資意欲を失わないだけの十分なリターンを与える
  2.  技術者が開発意欲を失わないだけの十分なインセンティブを与える

という 2 つの要件を満たすようなインセンティブ設計を考える、ということだと思うんですね。

 このような場合、資本家はリスクテイカーで、あえて研究開発というリスクの大きい投資をして、その分大きなリターンを得ようとしている。逆に、技術者はヘッジャーで、企業に所属することによって、研究開発という成果のバラツキの大きい仕事に対して一定の給料をもらうという形で、リスクのヘッジをしているわけです。

 したがって、形式的に言えば、両者は事前にこのような認識の上にたって雇用契約に合意しているはずだから、残りの収益は資本家側が総取りしてもおかしくないわけで、それが問題となるのは、

  1. 技術者に対するインセンティブとして、あえて報酬の一部を成果に連動させている
  2. 資本家・技術者双方の事前の予想を超えたアブノーマルなリターンが得られた

のどちらか(もしくは、この両方)の場合だけだと思うのです。

 そうすると、リターンがどのくらい大きかったらアブノーマルかということが問題になるわけですが、これは、CAPM のようなモデルを使えば、リスクの大きさとリターンの大きさの平均的な関係というのを、ある程度はじき出すことができるので、類似の研究プロジェクトの平均的なリスクから、平均的なリターンを求め、その範囲を著しく超えた分については、アブノーマルであると判断することができると思うのです。そうすると、このアブノーマル分については、技術者に還元したとしても、資本家の投資意欲は失われないはずですし、技術者がリスクヘッジのために払ったプレミアが高すぎたと感じることもないでしょう。

 もちろん、これだってそんなに厳密に計算できるわけじゃないでしょうが、5 % というのもたいして根拠のある数字ではないみたいなので、それよりマシな可能性はあるんじゃないかと思うんですけど。

 思いつきなので、はずしてたらごめんなさい。また時間があれば、改めて考えて見ます。

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日本語論二種

日本語の21世紀のために」丸谷才一・山崎正和

橋本治が大辞林を使う」橋本治

 職業柄、日本語には関心があるので、先日、日本語に関する本を 2 冊続けて読みました。

 この両者、一見立場が違いそうに見えますが、日本語の貧しさの原因が、明治期の近代国家成立時の強引な標準語の決め方にあるという診断や、豊かさを取り戻すための手がかりを江戸時代の演劇や話芸の話し言葉に求めるところなど、基本認識はよく似ています。

 もちろん、日本語を「崩す」方に力点のある橋本氏に対して、「守る」方に力点のある丸谷・山崎両氏とか、書き言葉を話し言葉に合わせようとしている橋本氏に対して、むしろ、話し言葉を書き言葉に合わせたほうがよかったと言っている山崎氏とか、2 人の間のダイアローグを重視する橋本氏に対して、さらに第三者を入れた「鼎話」を重視する山崎氏とか、対照的なところもたくさんあるのですが、両者とも視野の狭い偏屈なだけの人ではないので、同じものを反対側から見ているような感じで、どちらもけっこう面白く読めました。

 私は、古文にはまったく自信がなくて、現代文専門なので、ちょっとドキッとさせられたところもあるのですが、考えてみると、確かに、自分の好きな文章を書く人には、落語とかそういう話芸の好きな人が多いので、そういう日本語の遺伝子はある程度引き継がれているのだろう、と勝手に思うことにしました(^^)。まあでも、少しは古典もべんきょーしないとダメだよね。

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ウルトラマンの毒

 例の「円谷チャンネル BB」で、ウルトラマンの中でも伝説的な作品、第 23 話「故郷は地球」を観ました。

 いやー、子供向けヒーロー番組らしい爽快感のカケラもない作品でしたねー。

 宇宙飛行の実験中に行方不明になり、歴史から抹殺された宇宙飛行士「ジャミラ」が、奇跡的に異星の環境に適応して、怪獣のような姿になって生き延び、何十年もたって復讐のために地球に戻ってくる。しかし、科学特捜隊は、今さら真相を明かすことはできないという理由で、ジャミラを怪獣として倒すことを命じられる。水に弱い身体になっていたジャミラは、ウルトラマンに水流を浴びせかけられ、泥の中でナメクジのようにのた打ち回りながら死んでいく…。

 いやー、こんな話をよく子供番組として放送できたものですねー。こんなの、子供にどこまで理解できたのかなー。これも実相寺昭雄監督作品で、例の独特のカメラアングルも全開だし。

 ところで、ウルトラセブンのモロボシダンは、地球人と異星人の間に立って、文字通り宇宙人として悩む、というシーンがよくあるのですが、ウルトラマンのハヤタ隊員は、そういうことで悩むことはほとんどなくて、悩むのはだいたいイデ隊員の役割なんですよね。ウルトラマンは、ゴルゴ 13 のように常に非情に任務をこなす、という感じで。今だったら、結構アブナイ奴って感じになっちゃうかも (^^)。

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すごい毒

 「ほぼ日」の糸井さんが、「ダーリンコラム」で「テレビはすごい」とほめています。

 同じ糸井さんは、数日前には確か、「テレビは毒だ」と言っていて、これはすごくよくわかる気がします。

 ぼくは一時期、テレビをリアルタイムで観るのをやめて、必ず録画して後で観る、と決めていたことがありましたが、やってみると、実際には録画した番組の半分ぐらいしか観ないことがわかりました。その結果、テレビを観る時間は驚くほど減りました。

 けれども、別にテレビが嫌いになったかというと、そんなことはまったくなくて、なんとなくテレビをつければ、どんなにくだらない番組しかやってなくても、かる~く小一時間ぐらいは観てしまうわけです。

 つまり、テレビには、内容だけで判断すれば、別に対して観たくないと思っている人にさえ、いったに観始めたら最後、だらだらと見続けさせる力を持っているわけで、いわば、究極のヒマ潰しテクノロジーと言えましょう。(まあ、娯楽はすべて、最終的にはヒマ潰しだ、という気もしますが(^^))

 考えてみれば、テレビ、特に民放の存在理由というのは、何か有難いメッセージを流すことでもなんでもなくて、コマーシャルまでスイッチを切らせずチャンネルを変えさせず、テレビを見続けさせることなんであって、テレビ界はほとんどそれだけを目指して何十年もやってきたのですから、そのためのテクノロジーが異常なまでに進化しても不思議はありません。

 よく、民放は NHK に比べてくだらない、と言いう人がいますが、NHK は料金をとってやっているのだから、内容があって当然なのであって、(少なくとも視聴者から直接は) 料金をとっていない民放と比べるのは不公平です(かつてはメディアのチェンネル自体が限定されていたので、民放と言えども、公共性に配慮する必要がありましたが、今ではその必要性も弱くなりました)。こういう人は見落としているかもしれませんが、民放がくだらないのは、ひょっとしたら NHK のせいかもしれなくて、NHK がなかったら、民放はもっといい番組を作るかもしれないのです。

 なぜなら、民放が番組にかけられる予算は視聴率に依存しますが、NHK にはそういう制約がないので、民放は、「視聴率は低くても質のいい番組」というジャンルで NHK と競争しても、はなから勝ち目がないからです。したがって、民放は必然的に、高視聴率の見込める大衆向けの番組に特化せざる終えない、という、お役所による民業圧迫みたいな面もあるはずです。

 だから、今後もっとメディアの種類やチャンネルの数が増え、有料なメディアが増えれば、おそらく、有料メディアと無料メディアの役割分担がさらにすすみ、無料メディアの方はある意味ますます「くだらなく」なるんじゃないかと思っています。閑話休題。

 けれども、純粋にメディアとして考えた場合、テレビの優位性は、

  1. リアルタイム動画が、
  2. タダで、
  3. どこでも、

視聴できるということに尽きると思いますが、このような優位性は、衛星放送、ケーブルテレビ、ブロードバンド放送など、さまざまなメディアに脅かされています。インターネットなどは、その上、双方向のインタラクティブ性まで備えているので、おそらく、どの家庭にもブロードバンドの常時接続があるのがあたりまえの時代になったら、地上波で広範囲に映像を流すメディア、という意味での「テレビ」の優位性はほとんどなくなってしまうでしょう。

 しかし、メディアとしてのテレビの優位性はなくなっても、テレビのコンテンツを製作するために培われたノウハウやインフラや技術の蓄積や優秀な人材は残るのであり、こういったものは他のメディアのコンテンツ制作にも転用可能なはずなので、今後徐々に他のメディアにシフトしていくのではないかと思います。

 まあ、テレビを知り尽くした糸井さんがどういう意図でおっしゃっているのかは、ぼくなんかにはわかりませんけど、「 「ほぼ日」はテレビになる」という言葉を表層的に噛み砕くと、そんな感じになるんではないかと思った次第。あ、「ほぼ日」がくだらない、という意味じゃないですよ。為念。

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歴史学ってなんだ?

 先日、例の南京大虐殺の問題について考えようとして、自分が、歴史そのものはまだしも、歴史学の方法論については、まったく無知であることに気づきました。

 それで、歴史学の基礎を簡単に学べる本はないかと探していたら、「ライブ・経済学の歴史」の田中直樹ならぬ小田中直樹さんが、「歴史学ってなんだ?」という格好の本を書いてくれていたので、正月休みを利用して読んでみました。

 結論から言えば、たいへん親切で読みやすい本でした。(構造主義からポストモダンの影響というあたりの議論は、予想通りという感じで、個人的にはちょっと食傷気味でしたが、これはもちろん入門書には欠かせない記述ですから、著者の責任ではありません。)

 しかし、史実を本当に明らかにできるのか、という点については、結局、歴史家の間でも合意に至っていないらしく、少し拍子抜けしました。もっとも、そういうことを変に高尚ぶらずに率直に書いている点が、この本のいいところであり、この著者の美点でもあると思います。

 また、この問題に対する著者自身の意見としては、合意の形成を重視する「コミニュケーショナルに正しい認識」という解答が提示されており、これには全面的に賛成です。

 ただ、南京大虐殺のような問題を考えると、著者の言うように「どうもあったというのが今のところ通説らしい、というだけで十分」というわけにはいかなくなります。なぜなら、南京大虐殺のいわゆる否定論者という人たちの多くは、まったく殺人がなかったなどと言っているわけではなく、「虐殺」と呼べるような国際法違反の行為は、他の国の軍隊などに比べて特に多いわけではなく、したがって「虐殺」と呼ぶべきではない、と主張しているにすぎないからです。

 したがって、この問題を解決するには、さらに、なんらかの量的評価とか、それに対する価値判断が必要になってきます。(そのようなフレームワークについても、自分なりの試案がまとまりつつあるので、いずれ時間のあるときにまとめたいと思います。)

 また、歴史の解釈についても、著者は、「間違っていない解釈の間では優劣はつけられない」と言っていますが、私は、間違っているとは言えないが、弱い相関しかないものと、強い相関のあるものとの間でも、やはり優劣をつけるべきではないか、という気がします。この考えが正しいとすれば、ここにも量的評価というものが必要になってくるはずです。

 とまあ、いろいろと文句はつけましたが、現在の歴史学の水準を飾らずに示してくれたという点で、非常にありがたい本でしたし、中で紹介されている歴史書も、面白そうな本ばかりで、非常に勉強になったことは間違いありません。

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認識とアイデンティティ

 人間の認識には、根本的に異なる 2 種類の原理があると思うのです。

 たとえば、人間が見知らぬ人間に出会ったときには、「楕円柱に 4 つの円柱と 1 つの球がくっついた物体が動いているぞ」などとは思わず (仮にそう思ったとしても、網膜に一定時間映った図形を「物体」として認識するというようなパターン認識はすでにして行われているわけですが)、「人間だ」「女性だ」「若い」「歳いくつ?」「お茶のみに行こう」とかいう風になるわけです。

 これは、未知の対象に対して、自分が過去さまざまな対象と出会ったときに蓄積した、「人間」「女性」といった既知のパターンを当てはめていくという一種のパターン認識と言えます。それによって、人間はみな飯を食うので、こいつも飯を食うに違いないとか、いろんな推定が可能になるわけです。(これがまた差別の原因にもなるわけですが、それについては後日再論。)

 一方、人間が自分自身を認識する際には、これとはまったく異なる認識原理が働きます。たとえば、自分が飯を食うと空腹がおさまる、というようなことは、別に他の人間を観察しなくても、自分自身の経験からわかるわけです。

 前者を仮に「他者的視線による認識」、後者を「自己的視線による認識」と呼ぶことにしましょう。(他者的な視線は共時的なパターン認識、自己的な視線は通時的なパターン認識に関係しているような気もするのですが、このへんはまだ考えが詰めきれてないので後日再論。)

 たとえば、ある人の腕が千切れかかっているときに、自分で腕を動かそうとしても動かないから切れている、と考えるのは自己的視線による認識だし、同じような症例を何度も観察している医者が、このように神経が切れている場合はみな腕が動かなくなるから、こいつも動かせないはずだ、と考えるのは他者的視線による認識だということになります。

 もちろん、自分に対してあえて他者的な視線を向けることも可能だし、他者に対して自己的な視線を向けることも可能です。

 たとえば、上の例なら、人間だから飯を食うはずだ、とあえて決め付けずに、ずっと観察を続けることによって、確かに飯を食うということを確認することもできます。あるいは、自分が何を食べるかを決めるときに、他人がおいしそうに食べているから、自分にとってもおいしいはずだ、と判断することもあるわけです。

 そうすると、アイデンティティの問題と言うのは、単に主観と客観を一致させるというような問題ではなくて、この自己的視線による自己認識と、他者的視線による自己認識の間の整合をどうとるか、という問題ではないかと思われるのです。そうすると、この問題は、必然的に、「表現」とか「装う」とか「演技」とかいうキーワードと関わってくるはずです。

 このような考え方は、別に私だけのものではなくて、たとえば、「自己と他者」の R・D・レイン氏などもこう言っています。

「<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己と言うアイデンティティは現実化されるのである。」 

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オヤジ元年

 現代のような時代になると、人間いつからオトナになるのか、というのもなかなか難しい問題になります。やれ、近代以前には子供という概念はなかった (小谷野さんはウソだと言ってますが(^^)) とか、最近の若者は成熟が遅いので、30 歳ぐらいで大人になると考えた方がよいとか、無理矢理大人のフリをしろとか、現代風のイニシエーションが必要だとか、いろんなことを言う人がいますよね。

 まあ、私個人は、自分の方が年上だからといって、他人に対して特別な扱いを求める気はまったくないのですが、自分自身のアイデンティティの問題として、自分を若者と位置づけるか、年寄りと位置づけるかということを、まったく意識しないというのもウソ臭いと思うんですね。

 たとえば、何か発言をしようと思ったときでも、もちろん、自分ではなるべく普遍性・一般性のあることを言おうとするんだけど、実際には、何らかのバイアスがかからないなんてことはあり得ないわけですよね。その時に、自分が客観的にどのようなグループに入っているかということを意識することは、自分固有のバイアスを意識し自分の発言の客観性を担保するためにも必要なことだと思うのです。

 だけど、思春期までだったら、身体的にわかりやすい変化があるからまだいいけど、身体はその後だらだら年をとっていくだけだし、逆に、精神的・内面的な契機を見つけようとしても、現代では人によって人生経路の差が激しいので、なかなか他人と共通するものを見つけるのが難しいという問題があります。

 ところが、マネックス証券の松本大社長は、自分の年齢が日本人の平均年齢を越すので、来年から考え方を少し変えよう、みたいなことをメルマガに書いていて、これにはちょっと意表をつかれました。

 なるほど。確かに、法律的な成人概念のような規範的な区別ではなく、純粋に自分の自己認識だけのためなら、そういう統計的な区分が、最も客観性があって簡便でしょう。また、こういう冷静な自己認識があれば、自分では若いつもりで老害を撒き散らしたり、若造の癖に必要以上にオトナぶってかえって軽んじられたりというようなことも避けられるでしょう。私はまた一つ教えられたような気がしました。

 他にも、若いうちは平均値に近づいていく一方だからイケイケでいいけど、平均値を超したら今度は平均から離れていく一方になるんだとか、いろんなことを考えさせられましたね。

 そんなわけで、私ももうすぐ年寄り組の方に入るので、徐々に生活態度の方にも反映させていただきたいと思います。今年もよろしく。

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