人間は長生きだけで、生きてるんじゃない
こういうときにいつも思うのは、深夜にコンビニで薬が買えたり、あるいは、薬局から薬を宅配してくれたりしないかなあ、ということ(と、独身はツライということ(^^))。最近、ローソンなどでは、薬の販売を開始したようですが、風邪薬や頭痛薬は入っていないらしいです。
まあ、利権云々とかの話は別にしても、反対論者の御説は、どうも一般庶民の感覚とずれているように思います。特に思うのは、生命の危険というものを絶対視しすぎていること。
実際、大多数の生活者は、そんなに生命や健康だけを最優先にして生きているわけではないと思うのです。でなけりゃ、仕事や麻雀のために何日も徹夜したり、ドリンク剤をガブ飲みしたり、肝硬変になるまで酒を飲み続けたり、毎年少なからぬ人が死ぬとわかっているのに海水浴や登山に行ったり、正月にモチを食べたり、イラクに行ったり、活火山の近くに住んだり、熱湯風呂に入ったり、アントニオ猪木に気合を入れられたり、チXコマシーンにキXXマをシバかせたりするわけがないでしょう。あくまで、リスクとベネフィットを勘案した上で、日々意思決定を行っているわけですよね。
風邪を引いたときに、とりあえず風邪薬を飲んでおけばしばらくすれば治る、というのは、経験的・統計的認識としては、必ずしも間違っているわけではありません。もちろん、医者の診断と比べれば不正確な可能性は高いとは思われますが、医学だって完全ではないのだから、その違いは、あくまで相対的な確率の差にすぎないのです。
そういうリスクと、医者にかかるコストや仕事を休むことによる損失などを、その人固有の価値観・あるいは効用関数と照らし合わせた場合に、医者に行かずに薬を飲んでやりすごす、という意思決定に十分な合理性がある場合は少なくないと思うのです。それを、生命の危険、ということだけを盾にとって禁止することは、個人の選択の自由を必要以上に妨げ、ひいては、個人の尊厳を軽んじることになってやしませんか? (もちろん、その判断が裏目に出た場合の責任は個人が負う、ということが大前提ですが。)
そもそも、なぜこういう制度が出来たのかを考えてみると、一つは、一般庶民の「医学リテラシー」みたいなもののレベルが極めて低く、医者の判断とは質的な差があったということ。もう一つは、庶民のライフスタイル自体がわりと画一的だったので、医療業界の提供するサービスにもさほどの多様性が求められず、その分、安全性に対する責任をサービス提供者に一方的に課すことに合理性があった、などということが想像されますが、いずれも、現在では時代遅れの感が否めません。その辺が、反対論に今一つ迫力のない理由だと思われます。
ところで、まったく関係ないけど、ムーンライダースの「 涙は悲しさだけで、出来てるんじゃない 」というのは、すごくいい曲なので、機会があったら聴いてみて下さい。(^^)
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