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芸能人と社会的制裁について

 紳助氏の問題について、不特定多数の人に評価されなくてはならない芸能人と、当事者だけに評価されればよい一般人の社会的評価がリンクしていることが、問題をややこしくしている、というようなことを前に書きましたが、紳助氏を擁護する人の多くも、おそらく、紳助氏が払った何十万円ばかりの罰金よりも、紳助氏の芸能人生命の方を気にしていると思うんですね。ですから、芸能人に対する「社会的制裁」ってヤツについても、少し考えてみようと思います。

 私の記憶が確かならば、かつては、芸能人の犯罪というものに対する世間の目は、現在よりずっと厳しく、それこそ、軽犯罪ぐらいでも芸能人生命を抹殺されるような雰囲気があったと思います。

 おそらく、その理由としては、毎日のようにテレビに出ている芸能人は、倫理的にも社会の模範になることを期待されていたとか、一般人よりもずっと高収入でさまざまな役得もあると思われており、その分厳しい社会的責任を課されていたとかいうことがあったのでしょう。

 もともと、芸能人が倫理性の高い人だというのは、当時からフィクションにすぎなかったと思うのですが、インターネットも写真週刊誌もないころは、マスコミの監視網も今よりずっと甘かったので、そのようなフィクションもなんとか維持されてたのかもしれません。

 しかし現在では、ゴシップメディアの発達により、芸能人も普通の人にすぎないということが誰の目にも明らかになってしまったし、また、バラエティの流行により、自ら半ば露悪的に庶民性をアピールするような芸風が主流になって、このようなフィクションは完全に崩壊したと言えます。また、高収入な芸能人というのも一部だけで、それも長続きする保証はなく、びんぼー生活に甘んじている芸能人も多数いるということも常識になりつつあります。

 したがって、現在では、芸能人に対して特に高い倫理基準を求める理由はあまりなく、一般人並みでよい、というのが私の基本的な考えです。もちろん、事件のせいで自然に人気が落ちる、ということはあるでしょうし、それはもともと人気商売なのだから仕方がないでしょう。でも、芸能人だから倫理性が高くあるべきだ、というようなタテマエ論で裁くのは時代錯誤だと思います。

 紳助氏の場合も、それほどの悪意があるわけでもなく、傷害といっても回復可能な重症を与えたわけでもない(PTSD とか言ってるけど)し、本人十分反省もしているし、もしこれで芸能界追放みたいなことになったら、私はむしろ断固擁護しようと思っていました。(それは、あくまで自分がファンだからで、他人に強制する気はありませんが(^^)。)

 しかし、現実にはその真逆になっていて、この雰囲気で彼の芸能人生命がなくなるなんてことはあり得ない。だとすれば、もうそれで十分じゃないですか。それをわざわざ、被害者を貶めてまで彼の名誉を回復しようとするのは、いくらなんでもやりすぎじゃないか、と思うのです。

 ひょっとして、紳助氏を擁護する人には、上に書いたような、芸能人に対するタテマエ的な倫理の強制に対する反発があるのかもしれませんが、もはや、そういう時代は明らかに終わっていて、本当に人気のある芸能人は、一度や二度の犯罪歴ではつぶれず、なんだかんだ言ってしぶとく復活してくるという例を、私たちはいくつも見ているのではありませんか。

 自分の感じでは、おそらく、ビートたけし氏のフライデー殴りこみ事件あたりが、その転換点だったと思うんですね。でも、あの時彼はたしか、「他にどんな方法がある」みたいなことを言っただけで、「暴力が正しい」などという主張は一切しなかったはずです。(結果論かもしれませんが) それによって彼は、法の精神と自分の信念との折り合いをつけ、その結果として、法的には裁かれたけれども、逆に、社会的にはある種の評価を得たと言ってもよいでしょう。

 今回の紳助氏のケースも、周囲がもっと大人だったら、もっとうまく収まっていた可能性もあるのに、なんかわざわざ話をややこしくしちゃったんじゃないか、という思いがどうしてもぬぐえません。

 もともと、社会的制裁というのは、法の精神と相互に補完し合うもので、金持ちにとっては罰金はたいして痛くないのだからその分金持ちは厳しく見るとか、逆に、法律的には犯罪だからしょうがないけど人間的にはいいヤツだから刑期が終わったら温かく受け入れようとか、そういう柔軟な対応をすることによって、法律の形式性みたいなものに対してバランスをとる役割があったと思うし、そういうふうな配慮をすることによって、かえって、法の精神も維持されてきたんだと思うのです。でも、今回の事件に関しては、社会的制裁の論理が一方的に法の精神を押しつぶそうとしている雰囲気があって、そこが一番危惧されるところですね。

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紳助氏復帰について

 島田紳助氏の自粛期間終了の発表にともない、被害者側の弁護士が「時期尚早」とこコメントを発表したとのこと。

 そのようなコメントを発表するのは勝手ですが、私は、時期尚早かどうかは、最終的には視聴者が判断すればよいことだと思います。少なくとも彼は、法的な債務は果たしたのですから、刑期を終えた犯罪者みたいなもので、それをどう遇するかは、世の中の人一人一人が自分の価値観で判断すればよいことでしょう。

 もちろん、被害者が納得してないのに復帰しやがって、とか、数ヶ月ぐらいでのこのこ出てきやがって、と思う人もいるでしょうが、そういう人も含めて、視聴者を自分の芸と言動で納得させられるかどうかが紳助氏の勝負であり、復帰するからには、その覚悟があってするのでしょうから。

 ただ、島田氏や周囲の人に一つだけ望みたいことは、自分の社会的評価を上げるために、メディアを利用して被害者を貶めるようなことだけはしないでほしいということ。(もし、どうしても言う必要のあることなら、メディアではなく、法廷で言うべきだ。)

 前にも書いたけれど、これを許してしまったら、たとえ法的には自分に理が合っても、結局は自分が損する可能性が高い、ということで、有名人や権力者を訴えることが難しくなり、実質的に法の下の平等が損なわれるという、悪しき前例になりかねません。(ある意味セカンドレイプと同じようなもの。)

 それさえなければ、私も、安心して紳助氏のファンでいられます(^^)。

 これは半分冗談だけれども、「行列」の復帰第一弾はザンゲスペシャルにして、紳助氏の事件そのものを題材にして、弁護士軍団とゲストが寄ってたかって紳助氏をイジメまくるというのはどうだろう。ちょっとわざとらしすぎるかな(^^)。

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松本人志 in しりとり竜王・続報

 結局、選手じゃなくて、審査員としての参加だったんですね。それでも、最初のお題を出す役だけはやっていて、その御題だけでも、結構おもしろかったですけどね。でも、やっぱ本人も周囲もすごくピリピリしていて、ちょっと異様な雰囲気でしたね。

 昔、大喜利でキム兄や板尾さんが松っちゃんに挑んでいた番組は、もちろん松っちゃんの存在感はありつつ、キム兄や板尾さんの見せ場もあって、すっごく面白かったんですが、ああいうのはもう見れないのかなあ。

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「本当に自分の好きなことを見つけろ教」を相対化してやるっ

 珍しく攻撃的に書いてみましたが、私は、昨今のスペシャリスト偏重の風潮がどうも行き過ぎているような気がしていて、「本当に自分が好きなことを見つけるんだ」みたいなスローガンがほとんど強迫観念みたいになっている傾向にどうしても違和感を感じてしまうのです。

 先日も、「年収 300 万円時代」の森永卓郎さんがテレビに出ていて、「自分の好きなことを仕事にして暮らしていければ、収入が少なくても幸せだ」(うろ覚えなので不正確)みたいなことを言っていました。

 しかし、単に自分の好きなことを「する」だけでなく、それを「仕事にする」ためには、その仕事によって生産された財もしくはサービスを消費する消費者が必要で、消費者のニーズもないのに、単に好きだからという理由だけで仕事にすることなどできません。

 また、「収入が少ない」ということは、その収入による消費の量も少なくなる、ということなのであって、皆がこのようなスローガンを実践すれば、「好きなことを仕事にするために必要な消費者のニーズ」も必然的に減ることになるのです。

 さらに、「収入が少ない」ということは、その対価として供給されている財やサービスの量が少ないか、もしくは、市場価値が低いということを意味しています。前者は、世の中全体の財やサービスの量が少なくなることにつながり、後者は、いらないものが必要以上に生産されるということにつながります。つまり、いずれにせよ、世の中全体が貧しくなることを意味しています。

 そもそも、人間がみな、生産によって得られる所得を消費することによる効用から、生産にともなう労働の不効用を差し引いた総効用を最大化することを目指せば、社会全体の効用がある意味最適化される、というのが経済学の教えるところですが、それを、消費の効用を無視して生産の不効用だけを最適化しようとすれば、おそらく、社会全体の経済規模の縮小に向かう他はないでしょう。そうなれば、自分の好きなものを消費する自由が制限されるばかりか、「自分の好きなことを仕事にする」機会自体さえも少なくなってしまでしょう。

 つまり、「好きなことを仕事にしろ」という主張は、なんとなく聞いていると経済原則による疎外から人間性の回復を目指しているように聞こえるかも知れませんが、実は、本来表裏一体で生活を支えている生産と消費のうちの、生産の面ばかりを意識して、消費の面を無視した、生産生活重視・消費生活軽視のアンバランスな思想なのであり、同時に、社会全体のパイを縮小する典型的な縮小均衡の論理でもあるのです。

 森永さんは、「年収 300 万円になるんだから、好きなことをやらなきゃつまらない」みたいなことを言っていましたが、むしろ、「みんなが好きなことしかしなければ、必然的に年収 300 万円になるんだ」というほうが実態に近いのではないでしょうか。

 結局、確実に言えるのは、雇用機会の多さとか収入の量による制約の範囲の中で、選べるならば相対的には好きなものを選んだほうがよい、という程度のことでしかないはずです。しかるに、今の世の中では、そういう諸々の前提条件を無視して、「自分のほおぉんとおぉぉ~に好きなことを見つけろおぉぉ!」「出世よりも自己実現だあぁぁ!」「夢のある人ってステキいぃ!」(ちょっとワルノリ(^^))みたいな一面的な主張を言いすぎなのではありませんか?

 おそらく、「いい学校から大企業に入って出世するのが幸せ」みたいなことばかり言われた高度成長時代は、現在とは逆に、消費生活重視・生産生活軽視の時代だったのであり、それに対するアンチ・テーゼとしては、このような主張をすることにも意味があったのでしょう。しかし、ニートが何十万人もいるという今のような時代になっても同じことを言いつづけることは、なんかピントがずれているような気がして仕方ありません。

 今のような時代なら、私はむしろ「好きとか嫌いとかウダウダ言ってないで、なんでもいいから金になる仕事をしろ!」とか、あるいは、この言い方が下品すぎるなら、「なんでもいいから人の役に立つことをしろ!」と言いたいです(「銭金」とか見てると、ますますそう思う(^^))。

 真面目な話、そういうことを強調する人は、だいたい、社会的な成功者と目される人であったり、それにあこがれる人であったりするわけだけど、そういう人は、自分の好きなことを仕事にするという困難なことを成し遂げたからこそ成功者になったわけなんで、世の中の人がみなそれと同じことを実現できるかどうか、あるいは、無理矢理実現したらどんな世の中になるか、ということをもう少し冷静に考えたほうがいいと思います。そして、それが無理だとするなら、自分の才能に自信を持てる幸運な人を除いた大多数の人に対しては、どのような仕事にでもある、普遍的な喜びであるところの、「人の役に立つ喜び」「それでお金をもらえる喜び」「そのお金でものを買える喜び」の方をもっと強調したほうがいいんじゃないでしょうか。

 もちろん、そういう喜びに目覚めた結果として、自分の仕事が好きになるということはおおいにありうることで、そういう意味でなら、誰もが「自分の好きなことを仕事にできる」可能性はある、と言えるかもしれません。でもそれは、ある種の決断と諦念の産物であって、安直な自分探しとは別物である、ということは知っておいた方がよいと思います。

 さらに、現代では、専門性のあり方にも大きな変化があって、これがさらに「好きなことを見つけろ教」を危うくしていると思うのですが、これもまた時間のあるときに書いてみたいと思います。つづく。

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また地震と津波!

 今年はなんか、自然界による日本イジメの年かと思ったのですが、ひょっとすると、国際的な厄年だったのかもしれませんね~。クリスマスにリゾートに行って被害にあった人もいるようで、人間、どこで死ぬかわかったもんじゃないですね。この年になったら、いつ死んでもいい、というのはウソだけど(^^)、どこで死んでもそれなりに悔いのないような生き方をしたいなあ。しみじみ。

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松本人志 in しりとり竜王

 なななんと、松ちゃんがホントに「しりとり竜王」に出ることになったらしいです。

 うわー、なんか今から心臓ドキドキしてきた(^^)。

 他にも、「ダウンタウンのガキ使 15周年記念スペシャル 」とか、「 人志松本のすべらない話」とか、「ダウンタウン笑いの祭典予選会 」とか、年末はダウンタウン関係の番組が目白押しのようです。

 例年ダウンタウンは、年末年始の露出が少ない方だったと思うんですが、なんか、どうしちゃったんでしょう(^^)。

 紳助さん謹慎の余波か何か知りませんが、ありがたいことですねえ。これでことしも無事年が越せそうです(^^)。

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公共財としてのプロ野球存続論

 今日のサンプロで、プロ野球特集をやっていたので、プロ野球再編問題について、自分なりにいろいろ考えてみたのですが、結局、重要なポイントは次の3つに尽きると思うのです。

  • 野球というサービスは、一種の公共財の性格を持っている

 現在のところ、球団の収入は、主に、球場の入場料、放映権料、関連グッズの売り上げなどから来ているようですが、実際のプロ野球のファンというのは、このようなモノに金を払っている人に限定されていないはずで、たとえば、野球は大好きだけれども、ほとんど球場には行かず、新聞のスポーツ欄やテレビのスポーツニュースだけで楽しんでいるという人もたくさんいるはずです。(私自身、野球はけっこう好きですが、ナイター中継だってたまにしか見ないし、球場に足を運ぶのは数年に一回ぐらいです。)

 もし、こういう人たちに、プロ野球存続のために月 100 円だけ払ってくれみたいなことを言ったら、払う気のある人は少なくないと思うんですね。仮にそういう人が全国で1千万人いれば、それだけで年 100 億円ぐらいにはなります。

 つまり、プロ野球というサービスには、公共経済学で言うところの「非排除性」や「非競合性」があるため、潜在的な需要よりも少ない対価しか回収できていないと考えられるのです。このような財について、市場メカニズムに供給をまかせておけば、必ず過少供給になる、というのが経済学の教えるところです。

 実際にやっていけないから、球団の数を減らすしかない、というような主張をする人は、このような野球の公共財的性格を無視しているのであって、野球と言うサービスの最適供給量は、もちろん、限りなく増やすのはムリとしても、そんなに少なくはないと思うのです。

 この見地から考えられる対策としては、薄く広く金を徴収する方法を考えるということがあります。具体的には、有料のインターネット中継であるとか、情報提供サービスなどが有力な選択肢として挙げられるでしょう。

  • 野球というサービスは、外部効果が大きい

 野球というサービスは、実際に球団に入る金以外にも、さまざまなところに経済効果をもたらしています。たとえば、近所の飲食店街などは、球団があるとないとではかなり売り上げが違うでしょうし、スポーツ新聞などのメディアの収入も、プロ野球の人気に大きく依存しているはずです。

 このように、市場を介さずに間接的に与える影響を、経済学では「外部効果」と言います。つまり、ここにも、実際に対価は払っていないが、球団の存在によって得をしている人がいるわけです。

 このような、野球の公共財的な性質と、外部効果考え合わせると、地域密着という解が出てきます。

 極端に言えば、地方税から球団に直接補助金を出せば、非排除性の問題もある程度解消されるわけですが、そこまで行かなくても、たとえば、地方自治体が所有する球場をレンタルする際に、そのレンタル料を安くする、などという方法も考えられます。(もちろん、これは、間接的に税金で球団を支えているのと同じことになるわけです。)

 もちろん、球団の関連会社が、積極的にこの外部効果(この場合はシナジーと言った方がよいかも知れませんが)を利用して、複合的に事業を展開する、という手もあります。

  • 球団同士を競合する企業と見なすべきではない

 そもそも、野球というサービスの品質は、各球団が、自分だけの努力で生み出せるものではありません。

 もちろん、ゲームが面白いかどうかは、プレイヤー同士が互いにどれだけ切磋琢磨しあうかにかかっていますから、その意味で、ゲームプレイヤーとしての球団同士が馴れ合いになってはいけません。

 けれども、企業経営のレベルで考えれば、球団同士は、競合するというよりも、むしろ相互に依存し合っているわけで、特定の球団が、自分の球団を強くし、収入を増やそうとして行う行為が、プロ野球界全体の収入というパイを縮小する可能性は十分あるわけです。

 つまり、球団同士は、同じマーケットで競合する企業と言うよりも、同じ企業の中で競い合うライバル社員のようなものだと考えるべきです。

(ついでに言えば、昨今の誤った「成果主義」の導入によるトラブルも、根は同じような誤解から来ているものと思われますし、そもそも、企業同士の競争だって、社会全体のパイを増やすということを目標に、独占禁止法などの制約のもとに行われているわけです。)

 したがって、球団の目標は、あくまで球界全体の収入を増やすことであって、球団間の収入差は、あくまでそのためのインセンティブと位置づけるべきです。

 このような見地から考えられる対策としては、ドラフト改革などによる戦力均衡であるとか、あるいは、収入の分配方式の変更などが挙げられるでしょう。

 別に、とりたてて新しいことを言っているわけではなくて、基本理念を整理してみただけのことですが、球団経営を広告料として持ち出しでやっていくことが困難になった以上、こういう方向性になるのは当然と言えるでしょう。

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PC-Transer のパッチ

 気が付かなかったのですが、12/14 に「PC-Transer Studio メンテナンスパック」というパッチがリリースされていて、これをインストールしたところ、前に挙げた、

  • 対訳ビューの日本語部分の入力モードが、デフォルトで半角になっているみたいで、何度全角に変更しても、すぐ半角に戻ってしまう。とっても不便。

は修正されてました。めでたしめでたし。

 この修正のタイミングだと、このブログが読まれてた可能性もありますね(^^)。失礼しました。

 また、ペインの動作も変更されたみたいで、ペインのコンテキストメニューから [フローティング] という選択肢が消えていました。前は、これを選択すると、ペインが MDI ウィンドウと同じ扱いになって、タブの 1 つになったりしていたのですが、あまり必然性がわからなかったのは確か。

 これひょっとして、Delphi かなんかのコンポーネントのデフォルト設定をそのまま使ってるだけでは? 邪推かも知れませんが、このへんの動作も結構使い勝手には影響するのですから、そういうことはないように願いたいのですが。。。(^^)

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MT 導入記3

 どうも、PC-Transer くんは、「Not only can S V ~」というような倒置構文を理解できないらしく、「缶だけでなく、S は V する」とか「S が V する缶だけでなく」とか訳してしまいます(^^)。

 う~ん、これそんなに難しいかなあ(^^)。 can が普通名詞でないことは、単数無冠詞で出てきてるのを見ればわかりそうなものですが。。。そういうチェックをする前に、先に構文を決めてしまうようですね。。。

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ハイバネーション移行中の音など

 ぼくの使っているノートパソコンは、ふたを閉めると自動的にハイバネーションに入るように設定してあるのですが、そのハイバネーションへの移行が完了するまでの間、「ピッ、ピッ、ピッ」と一定周期でビープ音が鳴り続けるようになっています。

 このビープ音が、いつまでたっても鳴り止まないことがあって、いくらなんでも遅いだろうと思ってフタを空けてみると、「なんちゃらのせいで休止状態に入れません」みたいなメッセージが表示されていることがあります。これって、せっかく移行期間が音でわかるようになっているんだから、中断も音で知らせるようになってないと、意味ないんちゃう(^^)?

 このノートパソコンは、実は IBM の ThinkPad なのですが、他にもちょっと変なところがあります。たとえば、「ソフトウェア導入支援」というユーティリティがついていて、BIOS のなどを自動でアップデートできるのはよいのですが、更新後にも旧バージョンのファイルがすべて保存されていて、無理矢理消すならともかく、"graceful" に消す方法がないのです(IBM のサポート担当者談)。えー? それじゃディスクにファイルが溜まっていく一方じゃんか? うそぉぉん(松ちゃん風に)?

 IBM のエンジニアが優秀だということは重々承知しているし、ThinkPad も平均すれば高品質であることは間違いないのですが、正直、ときどき、意表をつかれることがあります。まあ、実際に開発者に会ったりしたことがあるので、余計そう思うのかも知れませんが(^^)。

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インクレディブル

 「Mr.インクレディブル」って、なんか、藤子不二雄氏の「中年スーパーマン佐江内氏」に似てる、と思ってしまうのは、私だけでしょうか(つっても予告編しか見ていないのだが(^^))。まあ、ありがちな発想だし、アメリカ人がこんなマイナーなマンガを読んでるとしたら、その方が偉いという気もしますが。

 ブログも、ネタがないと、つい無理矢理ネタを考えようとしたりしてしまうところがよくないですね。(^^) 

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配当 vs 内部留保

 この記事

生保協会は「株主の利益をより重視し、米国並みの30%以上の配当性向を目指すべきだ」と主張している。

とか書いてあるんですけど、どうなんでしょう。

 たしか、最近のファイナンス理論だと、配当を行う代わりに内部留保すれば、その分インカムゲインは減るけれど、代わりに、株価が上がってキャピタルゲインが増えるから、どっちでも同じだ、ってことになってたんじゃないかしら?

 しかも、配当は権利確定日の近辺だけ株を所有してれば受け取れるけど、内部留保はそうじゃないから、むしろ、内部留保のほうが健全な株価形成につながる、という考え方もあると思うんですが。

 もちろん、経営者が効率的に運用できるあてのない資本であれば、株主に還元したほうがよいわけだけれど、それは、自社株購入とかといっしょで、一種の減資という位置づけだったと思うんですが。

 この生保協会の人は、そういうことも承知の上で、現在の日本の株式市場はまだまだ完全市場とは程遠いので、そういう処置が必要である、という意味で言っているのか、それとも、単に考え方が古いのか、よくわかりません(^^)。はずしてたらごめんなさい(^^)。

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歴史を動かす人、動かされる人

 ビデオに撮りためてあった「新撰組」を数回分見直してみました。

 このドラマで1つ印象的なのは、他の歴史物ではわりといい役に描かれることが多い、勝海舟と西郷隆盛がかなり悪役になっていることですよね。それに対して、新撰組の連中は、人を斬ったりもしたけれど、根はいいヤツなんだ、という感じに描かれている。

 つまり、歴史を動かす人=ヤな奴、歴史に動かされる人=イイ奴、という図式ですね。

 これは、かわぐちかいじ氏の「ジパング」なんかでもそうで、このマンガでは、歴史を俯瞰で見てよりよい方向に動かそうとする人たちと、歴史の内側にいてその中で最善をつくそうとする人たちとの間の葛藤、というのが、よりはっきりと1つのテーマになっていますね。

 これは多分偶然の一致ではなくて、それこそ時代がそういうものを求めているということがあるんだと思うんですね。それはもちろん、単純な進歩史観の終焉とか、一種のリビジョニズムの影響とか、いろんなことがあるんでしょうけど。

 昔、宮崎駿氏が、「歴史を動かすのは悪人だ」という発言をしていて、そのときはまったくピンとこなかったんですけど、歳をとるにつれて、だんだん何が言いたかったのかわかるような気がしてきました。まあ、それを誤解を招かないように説明しようとすると、なかなか難しいのですが(^^)。

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明石歩道橋事故に対する疑問

 あの明石の歩道橋事故について、警察、警備会社、明石市の3者の過失を認定する判決が出たそうです。私は、この事故について、細かい事実関係も知らないし、法律の専門家でもなければ警備の専門家でもないので、的外れかも知れませんが、少々疑問があるので書いてみようと思います。

 そもそも、責任というものは、何かアプリオリに存在するものではなくて、リスクとコストのバランスを考えたときに、社会的便益が最大化された(あるいは負の便益が最小化された)状態を実現するための、インセンティブだと考えるべきだと思うんですよね。

 このような事故の場合、主催者側の責任をゼロだとすると、主催者にとっては、まったく警備を行わないことが最適の選択になってしまいますから(主催者側のモラル・ハザード)、これがまずいのは間違いないでしょう。しかし、逆にすべてを主催者側の責任にしてしまうと、今度は、歩行者の側にモラル・ハザードが発生する可能性がでてきます。

 歩行者は、実際に被害に会う側なのだから、モラル・ハザードなど起こるわけがない、と思う人もいるかもしれませんが、歩行者と言っても、歩道橋の橋の部分にいる人と階段にいる人、あるいは、大人と子供とでは、それぞれリスクが異なっているわけで、前者の不注意で後者に被害が及ぶということがありえるわけですから、やはり、モラル・ハザードの発生する可能性はあるんですよね。

 したがって、主催者側に全責任を負わせると、社会的な負の便益はかえって増大する可能性があるので、主催者と歩行者のそれぞれに応分の責任負担を求めるべきだ、ということになるはずです。

(ただ、何万人もいる歩行者に、実際にどのように責任を分担させるかというのは難しい問題で、いっそその場にいた人全員の連帯責任にしてしまって抑止効果を狙うとか、いろんな考え方があると思うのですが、ここでは保留します。)

 ここで問題なのは、その応分の責任のレベル(注意義務)をどうやって決めるかということです。

 たとえば、道路に画鋲をばらまいていいか、というような問題なら、危険が明白な上に、そんなことをして得する人はだれもいないので、あえて法律で定めなくても、常識的な判断に任せておいてもよいでしょう。

 しかし、階段の傾斜角度は何度にすべきか、というような問題になると、話は変わってきます。おそらく、階段の傾斜角度と事故のリスクの関係は、ゆるやかな増加関数になっているはずで、少なくとも、29度までは極めて安全だが、30度を超えると突然危険になる、などというふうにはなっていないはずです。

 このような問題の場合、「いろいろ研究した結果、30度が最もコストとリスクのバランスのとれた数値であることが判明した。しかるに、この階段は31度であるから、設計者が悪い」というようなやり方をすると、誤差範囲の問題もあるし、その「いろいろ研究」するコストを誰が負担するのかという問題ももでてきます。

 もし、このような一種の法の遡及適用を当然のこととすれば、サービス提供者側にとっては、過剰品質が最適の選択である、ということになるでしょう。花火大会で言えば、本来もっと気軽に開催できるはずの花火大会が、必要以上に金のかかるイベントになり、おいそれとは開催できないものになってしまうかも知れません。

 逆に、遡及適用をしないことを当然とすれば、サービス提供者側にとっては、過少品質が最適の選択であるということになるでしょう。花火大会で言えば、本来もっと気楽に参加できるはずの花火大会が、某関西地方の祭りのような、命知らずの人だけが命がけで参加するイベントになってしまうかもしれません。

 つまり、いずれにしても、社会的便益最適の状態からはかえって遠ざかってしまのであって、このような場合には、あらかじめ人為的に標準を決めておくべきであり、当事者よりも、むしろ、必要な法整備を怠った国や立法府の責任を問うべきかもしれないのです。

 明石の事件に戻ると、主催者側の責任については、だいたい次の 3 通りの考え方があると思われます。

  1. とにかく、犠牲者が出たのだから、主催者になんらかの落ち度があるはずだ。
  2. どの程度の警備が妥当なのかはよくわからないが、少なくとも、それよりはるかに劣っていたのは間違いない。
  3. 主催者もそれなりの努力はしているが、十分な警備の水準に達していない。

 この 1 は、先に述べたとおり、考え方としておかしいと思うのです。また 2 は、問題先送りの感はありますが、少なくとも、この事件に限って言えば、妥当な判断かも知れません。

 問題は 3 の場合です。このような場合にどの程度の警備が妥当かということについて、どこまで明解な線が引けるのでしょうか? この記事には、「十分な警備」という言葉が繰り返し登場しますが、どの程度の警備で十分かは、歩行者がどのくらい注意を払ってくれるかに依存するはずです。それがもし、歩行者の不注意は予見できたはず、というような論法であれば、歩行者を動物の群れ扱いしてるようなものであって、歩行者側のモラル・ハザードを助長にすることになりかねません。もちろん、少なくとも「過剰な警備」でなかったことは間違いないのでしょうが、だからと言って、職務上の懲罰とか責任者のリコールとかではなく、「刑事責任」を問うことが本当に妥当なのでしょうか。

 まあ、専門家の方がやっていることですから、そんなこんなも考えた上のことであると信じたいですが、少なくとも、この記事を読んだ限りでは、どのような考え方で責任を認定したのかよくわからなかったので、いちおう書いてみました。

 たいへん痛ましい事故であれば、なおのこと、手軽なスケープゴートを見つけてハイおしまい、みたいなことにならないことを祈りたいと思います。

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インターネットでよみがえる思い出

 「円谷チャンネル BB」という、昔のウルトラシリーズをブロードバンドで放映しているサイトがあるのですが、某プロバイダーのブロードバンド乗り換えキャンペーンのおかげで、これを無料で見れるので、毎週楽しみに見ています。

 先週公開されたウルトラマン第19話「悪魔はふたたび」を見ていたら、子供のころに住んでいた千駄ヶ谷のガード下らしき風景が出てきたので、それをきっかけにいろいろ検索していたら、そのものずばり、「ウルトラシリーズロケ地探訪」なんていうサイトを見つけてしまいました。これだからインターネットは怖ろしい(^^)。

 それで火がついてしまって(風邪がぶり返して仕事に集中できないという事情もあったのだが(^^))、ウルトラシリーズについていろいろ調べたところ、帰ってきたウルトラマン団次郎の本名が村田秀雄だったとか、ウルトラセブンの音楽で有名な冬木透が「鳩子の海」の音楽もやっていたとか、くだらないトリビアがいろいろわかってちょっと面白かったです(しかし、Wikipedia のウルトラシリーズ関係の記事は、みょーに充実してますねえ(^^))。「鳩子の海」の音楽は、子供のころ大好きで、よくリコーダーで吹いていたのですが、してみると、私の幼児期の音楽的影響は、冬木透氏からのものが大きかったのですね。

 逆に、後になって神格化された実相寺昭雄監督も、「 真珠貝防衛指令」とかのころは、申し訳ないけど、まだあんまりうまくなかったんだなあ、ということを再認識しました。妙な映り込みのカットとか超アップを多用してるんだけど、ほとんど意味がない感じで、高校の文化祭でさんざ見せられた、観念的な映画の数々を思い出してしまいまいた。実相寺さんも若かったんだなあ~、という感じ。わりと評価の高い「恐怖の宇宙線」なんかも、今見ると、「わかりづれえよ! ふつーに撮れよ!」と思ってしまいます。さすがに、「狙われた街」なんかになると、有名なちゃぶ台のシーンも夕陽の決闘シーンも含めて、一遍のファンタジーとして成功しているとは思いますが。しかし、このちゃぶ台シーンのせいで実相寺監督が干された、というのはホントなんでしょうかねえ(^^)。

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お華氏いぞ 9/11?

 アメリカの保守派が、マイケル・ムーアの「華氏 911 (Fahrenheit 9/11) 」に対抗して "FahrenHYPE 9/11" ってのを作ったらしいんですけど(^^)、誰か見た人いないですかねえ。

 こういうのって、つい怖いもの見たさで見たくなっちゃうんですけど、金払ってまで見る価値はない気もするし。現在、取り寄せようかどうしようか、迷っているところなのであります。

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ダウンタウンの新番組

 ダウンタウンが新番組をやっている、ということを、昨日まで不覚にも気づかなくて、昨日やっと初めて「考えるヒト・公募の錬金術」を見ました。 中田有紀 さんというアナウンサーが、昔の「テレビタックル」の丸川珠代さんみたいな役をやっててちょっと面白かったですね。なぜか、アヤパンや佐藤寛子ちゃんらしき娘も解答者ででていました。

 でも、何より松ちゃんが生き生きしてたのが、ファンとしてはうれしかったですね~。どうも、あの松本人志にして「天才」の名が少し重荷だったらしく、こないだの「松紳」でも、「虎の門」の「しりとり竜王」に一解答者として出たいみたいなことを言ってて驚きましたが、だって本当に天才なんだからしょうがないですよね~(^^)。

 まあ、あまり期待しすぎないようにしますんで、もっとどんどん気楽にテレビに出てください。ぼくは少しでも多くあなたの芸が見れれば、それだけでじゅうぶん幸せですから(ってラブレターか(^^))。

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自己組織的コンテンツの魔力

 このブログも書き始めて2週間になり、私にも、ブログのよいところが実感としてわかってきました。それは結局、書くための心の敷居がすっごく低いということにつきると思います。

 そもそも、インターネット以前のメディアでは、情報流通のコストが高くてチャンネルもトラフィックも限定されているので、情報の送り手の側が、メディアの無駄遣いを防いで、情報の品質を維持する必要がありました。ところが、インターネットの出現は、情報流通のコストを劇的に下げると同時に、受け手主導・オンデマンドの情報流通というものを可能にしました。言い換えれば、どんなにつまらない情報であっても、邪魔にならないように置いておけば、必要な人が勝手に利用してくれる、というような流通方式が可能になり、その結果、情報は質より量が重要だ、という情報流通の価値観に対する革命を引き起こしたのです。「インターネットは便所の落書きのようだ」と言った人がいましたが、実際に使ってみれば、まさにそれがインターネットのよさでもあったというわけです。

 ただ、いくら受け手主導と言っても、実際には検索などの情報発見のためのコストが残っているので、自分のウェブサイトを作るときには、見る人が情報を発見しやすいように、全体のテーマを決め、構成を考え、というようなことをしないわけにはいきません。したがって、かつてのメディアと比べれば圧倒的に敷居は低くなったとは言え、やはり、そんなに好き勝手なことは書けない、という感じは残っていました。掲示板のようなコミュニティサイトにしても、自分のウェブサイトに比べれば、一発ネタ的な投稿が可能ですが、やはり場の空気や話の流れとかを考えると、(いくら XX はスルーとか言っても)そんなに好き勝手なことは書けないわけです。

 ところが、ブログの出現は、こういう諸々の敷居をすべて爆破してしまいました。ブログでは、記事が自動的に時系列やテーマ別に整理されるので、構成に気を配る必要もなければ、あくまで自分のサイトだから、場の空気に気を使う必要もない。それでいて、その記事を面白いと思ってくれた人は、勝手に引用してくれたりもするし、興味のない人は自然にスルーしてくれる(これはイヤミでもなんでもなく、ホントに「してくれる」という感じです)。つまり、思いつきで情報をどんどん投げ込んで行けば、どんなくだらない情報でも、その情報にふさわしい位置づけが、自動的かつ自己組織的に与えられる、というある種究極の世界にまた一歩近づいたわけです。

 こうなると、情報発信というより、たわいのない日常会話に近い感じで、それも、めちゃめちゃストライクゾーンの広い友人と喋っているようなものですから、かなりの麻薬性があり、ある意味怖ろしい世界です。聞くところによれば、嵌って燃え尽きる人もいるそうですが、さもありなんと思いました。私も、せいぜいバランスを崩さないように、ほどほどに続けて行きたいと思います。

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M2E

 あの m-flo が、 作曲教授、ボーカル美雨ちゃん(Sister M 名義)の " The Other Side of Love " をカバーしたというのを知って、あわててダウンロードして聴いていみましたが、けっこういいですね~。タカハシタクさんのアレンジは、引き出しの数も多くて、前からけっこう好きだったけど、また一皮剥けた感じがありますね。原曲はかなりくら~い曲なんですが、こちらはソウルフルなダンスチューンになっております。"Let go" のカップリング曲で、ボーカルも Sister M から Sister E になってますね(^^)。

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見かけによらぬ美人本

 「美人(ブス)投票入門 」山本一郎著

 株式投資の理論には、効率的市場においては株価はすみやかにフェア・バリューに収束する、というアカデミズム正統ファンダメンタルズ派みたいなのと、株価は需給関係によっていかようにもなるという、現場叩き上げテクニカル派みたいなのの両極があって、もともと、「ケインズの美人投票」というのは、自分が美人と思う人(=会社)ではなくみんなが美人と思う人に投票しろ、という意味で、どちらかと言うと後者のニュアンスが強いのですが、この著者はバリバリのファンダメンタルズ派であって、この本に書かれているのも、あくまで、数々のトラップをかいくぐって真の美人を見極めるための方法であります。

 けれども、この本は、学者先生の書かれた本と違って、実際には真の美人が美人投票にノミネートされるとは限らない、という現実もきちんと押さえているし、自信過剰のギャンブラーの書いた本とも違って、わかることだけきっちり書き、わからないことは正直にわからないと告白する誠実さも併せ持っています。こういう本って、意外と少ないんですよね。

 毒舌調が嫌な人もいるでしょうけど、私の場合は、読んでるうちに照れ隠しだとわかってきて気にならなくなりました(なんて書くと怒られるかな(^^))。また、ある程度事情に通じた人にとっては、名前を伏せて引用された数々のエピソードに固有名詞をはめ込んでみる、といった、ちょっと意地悪な楽しみ方もあるでしょう。

 そんなわけで、投資理論の基礎を学んで、理論と実際をつなぐ橋渡しになるような本を探している人に、お勧めできる本だと思います。

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怒りの方法(と対象とその理由)

 「怒りの方法」辛淑玉著

 題名は「怒りの方法」ですが、実際には、怒りの方法と対象とその理由、という感じの本で、しかも、そのそれぞれのクオリティにかなり差があるので、全体としての評価にはちょっと悩みます。

 「方法」の部分は、声の出し方から服装からイベントの企画に至るまで、非常に具体的かつ実践的で、また、経験の裏付けも感じられて説得力があります。

 一方、「対象」の部分は、これは怒っても当然という例と、正直、これはちょっとどうかな~という例が入り混じってる感じ。特に、冒頭の「私、毎日、怒ってます」というところに列挙される例は、ほとんど八つ当たりに近いものばっかりで、完全に引いてしまいました。おそらく、この部分だけ立ち読みして、買うのをやめてしまった人が相当数いるものと推察いたします(^^)。

 そして、「理由」の部分になると、「方法」とは対照的に、頭でっかちで説得力のない理論武装が多いと感じました。おそらく、借り物の理論をよく吟味せず採用しているか、思いつきの理屈を深く煮詰めないで使っているかのどちらかでしょう。(もっとも、著者がこれまで怒ってきた相手が、この程度の理屈で十分な相手ばかりだったとすれば、それはそれで十分同情に値しますが。)

 著者はおそらく、単に弱者が虐げられているのを見過ごせない人なんでしょうけど、仮に、怒りの発端が弱者に対する素朴な共感であったとしても、それをいい加減な理論で強引に一般化してしまえば、本来怒るべきでない相手にまでとばっちりが行く可能性が出てきます。著者がもし、そのような「誤爆」を意に介さないとするなら、それはまさに、集合によって要素を判断するという差別の論理そのものであって、江戸の敵を長崎で討つというたぐいの、ルサンチマンによる意趣返しに過ぎない、と言わねばなりません。

 そもそも、今日のようなサヨク・リベラル・ハト派・フェミニズム陣営の退潮を招いたのが、そのような強引な拡大解釈による誤爆の数々に対する反発であったことを考えると、著者のように影響力のある人は、もっとそういうことに自覚的であってほしい、と思ってしまうのですが、ゼイタクでしょうか?

 こんなに苦労している人に、えらそうなことを言うのも気が引けますが、「方法」の部分だけにしぼるか、それとも、「理由」の理論武装の部分をもっと地に足のついた議論にまで詰めれば、より多くの人に受け入れられる本になったと思います。でも、あとがきなんかを読むと、この人はまだまだ思想的な柔軟性を残しているようなので、今後の著作に期待したいと思います。

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外交と世論と民主主義と

 国際社会というのは、必ずしも原理原則の通用しない世界です。国際法も未熟であるし、法を執行するための制度も、しばしば機能不全を起こします。私は、その現状を無条件で肯定しているわけではなく、いつかは国際社会にもきちんとした法治主義が確立され、原理原則の通用する世界になってほしいと思うし、またいつかはきっとそうなるだろうと信じていますが、少なくとも今現在の世界がそこまで行っていないことは否定できません。

 そして、外交というものが、このような国際社会の中で自国の利益を確保するための技術である以上、そこには、単純な原理原則を超えたかけひきが必要であることも、やはり否定できないものと思われます。

 一方、日本の国内においては、一応は法的秩序が確立しているので、国民は基本的に原理原則に基づいて行動することが許されます。たとえば、国民には自由権がありますから、本人の意思を無視して他国に連れ去ったりすることは許されませんし、政府はそのような人権侵害に対する被害の回復を全力で図る義務があります。また、国民には表現の自由もありますから、そのような事態に対して、いかなる意見を表明することも許されます。

 ところが、日本はまた民主主義国家でもありますから、日本の外交政策は、最終的には、そのような世論によって決定されるわけです。そして、そのことは他国もわかっていますから、いくらかけひきなどと言っても、日本の世論を観察していれば、その方向性はある程度読めてしまうのです。これは、民主主義国家固有の外交的制約であり、日本の外交を担う者は、このことを前提として外交をハンドリングする力量を持たなくてはならないのです。

 世論は沸騰しているけれども政府は意外と冷静、というのは、外交的には案外いいバランスなのかも知れませんが、そういう構造を政争や売名の具にする人が現れる可能性もある、というのが、また難しいところです。もちろん、民主主義の国家は、そのような活動の存在すらも、制度的には許容します。民主主義は、最善の社会を保障する制度ではなく、最悪の社会を避けるための制度であり、そこでどのような政治が行われるのかは、やはり、個々人の努力にかかっているのです。

 外交において、絶対平和主義が非現実的だとするなら、絶対強硬原理原則主義も同じぐらい非現実的である可能性があります。政府には、切り札を切るタイミングを間違えないことを期待したいものです。

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「ヒストリエ」に注目

 あの「寄生獣」の岩明均氏がまた傑作をものしつつある、という噂を聞いて、早速その「ヒストリエ」1,2 巻を取り寄せてみました。まだたった 2 巻なので、断定するのは早すぎると思いますが、確かに、傑作を予感させるものがあると思います。

 帯に「アレキサンダー大王の書記官エウメネスの波乱に満ちた生涯!」とある通り、歴史物なのですが、まず、その古代人たちの人間性の描き方がうまい。殺人・拷問・強姦・差別があたり前の世界を眉一つ動かさずやりすごす人たちの描写は、「寄生獣」における寄生生物の非人間性の描写を彷彿とさせます。また、彼らの言葉が、完全に現代日本人の話し言葉であるのも、彼らに対する感情移入を容易にすると同時に、彼らの感性の異質さを際立たせるという二重の効果を挙げています。

 アリストテレスの逃亡を助けながら、故郷に帰ってくるというところから、子供時代の回想シーンに入っていく導入部もよく、さまざまな伏線を張り巡らせながら進んでいく展開には思わず引き込まれます。まだ、この先どうなるのかわかりませんが、今後も目が離せない作品になりそうです。

 余談ですが、「トリビアの泉」にも出てきた、「 『流氷の天使』クリオネのエサの食べ方 」は、ホント寄生獣そっくりなので、興味のある方はぜひ映像を探して見てください。きっとビックラこきますよ。(^^)

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島田紳助事件の不幸な構造

 女性マネージャーに暴行を働いた島田紳助氏が、略式起訴されたそうです。

 この問題の是非については、紳助が悪い、いや悪くないと、世論が割れているようですが、法律的な評価と社会的な評価を混同しないようにしないと、不毛な議論にしかならないと思います。

 法律的な評価というのは、社会的な合意の形成を重視しますから、どうしても形式的になります。この事件の場合なら、殴ったと言う事実だけが重要であって、そこにどんな理由があろうと、刑が軽くなることはあっても、善悪が逆転することはありません。ですから、このレベルで紳助氏が「悪い」と言うのは、議論の余地がないはずです。

 もともと、このような法律は、私的なレベルで解決できない紛争に、国家権力が強制的に介入することによって、私的な紛争が社会秩序を崩壊させるような事態に至るのを防ぐための、一種の安全装置として存在しています。だからこそ、介入の条件が明確に指定され、それが満たされればほとんど無条件に発動されるような仕組みになってているのです。

 この事件の場合にも、被害者が警察に訴えたり、和解に応じないこと自体を責める人もいるようですが、そもそも、私的な力関係で言えば、紳助氏や吉本興業の方が圧倒的に優位にあるのであって、彼らは、被害者を減給にすることもクビにすることも大金をだして懐柔することもできたのだ、ということを忘れてはなりません。そのような優位に立ちながら、問題を私的なレベルで解決できず、国家権力の介入を招く理由を作った責任は、彼らにこそ問われるべきものです。

 一方、社会的評価の方は、個々人の主観的な評価の集積にすぎず、法律的な評価とは逆に、社会全体で合意する必要はありません。この事件の場合も、もし、被害者が無礼な態度をとったという主張が事実であれば、その分紳助氏に同情する人がいてもおかしくはありません。しかし、同情のレベルを超えて、紳助氏の方が「正しい」と言うためには、単にこの女性が無礼か否かではなく、殴っても許されるほど無礼であった、と言える必要があります。そして、どのぐらい無礼なら人を殴ってもよいかなどということは、社会全体で合意などできるはずがないのです(もしできるのなら、無礼な人間は殴ってもよい、という法律ができているはずです)。したがって、このような評価は、どこまで行っても私的な評価にすぎず、被害者が本当に無礼だったかどうかも、当事者だけが知っていればよいことだったはずです。

 ところが、この事件の場合、加害者がたまたま、社会的評価が収入に直結する「芸能人」という職業についていたので、加害者が仕事をつづけるためには、加害者の社会的評価をある程度上昇させる必要ありました。そして、さらに不幸なことは、この事件においては、加害者の社会的評価を上昇させることは、被害者の社会的評価を下げることに直結しているということです。だからこそ、本来は当事者同士の私的な問題ですんだはずの、両者の社会的評価をめぐって、加害者と被害者が全面的に対立するという構図になってしまったわけです。

 そもそも、紳助氏の「全面的に自分が悪い」という発言は、自分はこの事件について、社会的評価のレベルで争うつもりはない、という意思表明だったと思うのです。そして、紳助氏に好意を持つ人たちが、彼の一日も早い芸能界復帰を望むなら、この隠されたメッセージを(それこそ日本の伝統と言われる)阿吽の呼吸で受け止め、この事件について紳助氏の名誉回復を図ることはあえて禁じ手にし、あくまで紳助氏の芸に対する評価によって、彼を番組に使い続け、あるいは、彼の番組を見続ける、という態度をとるべきだったと思うのです。

 しかし、実際には、彼の周囲の芸能人やインターネットの紳助ファンは、彼を擁護し、相対的に被害者を中傷する発言を繰り返し、結果として、被害者の態度をより硬化させてしまうことになりました。   

 現在、被害者は民事訴訟に訴えることを検討中だそうですが、もしそうなれば、事件のより詳細な事実関係が明らかになることでしょう。もちろん、それによって、紳助氏の名誉が回復される可能性もありますが、より不名誉な事実が発覚してしまう可能性もあります。そして、いずれにせよ、彼の復帰がより長引くことだけは、間違いなさそうです。

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