続・伝記の美化について

 NHK は伝記を美化しすぎではないか、という話を先日書いたばかりなのだが、またしても NHK を観ていて同じことを思ってしまった。そう、「クローズアップ現代」の「無頼棋士の遺した言葉」である。

 取り上げられたのは、先ごろ亡くなった囲碁棋士の藤沢秀行。知っている人も多いと思うが、この人は棋士としては偉大だったが、私生活の方は品行方正とはほど遠い人だった(その一端は Wikipedia の記事でもわかる)。

 たとえば、藤沢氏と付き合いのあった将棋棋士の米長邦雄は、こんなエピソードを書いている(前にもちらっと書いたように、ぼくはかつて米長の著書を愛読していたのだが、将棋連盟会長になって以後のこの人の言動には愛想がつきたので、あえて敬称は略す)。

 ある日の早朝、米長の家に藤沢氏が予告もなく訪ねてきた。家に入れてしまうと酒を付き合わされることは確実で、朝っぱらから酒が入ってはいろいろと差し支えると考えた米長は、仕方なく居留守をつかおうとした。すると、藤沢氏は、近所中に響き渡るような大声で叫んだ。

「お○○○ー! 米長はおるかあっ! お○○○ー!」

 世間体を考えた米長は、さすがに居留守をやめて藤沢氏を家に迎え入れざるおえなかったという。ちなみに、伏字になっているのは、沖縄では湖の名前にもなっているが関東地方では口に出すことをはばかられる例の四文字言葉であることは言うまでもない。

 藤沢氏が四文字言葉を叫ぶのは、なにもこのときに限ったことではなく、ほとんど口癖のように言っていたらしい。女性棋士が集まる部屋にあやまって闖入した藤沢氏が、「なんだ、この部屋には腐ったお○○○しかいないじゃないか」と言ったとか言わないとかいう話もある。

 もちろん、「クローズアップ現代」の放送では、こんなエピソードは何一つ紹介されていない。それ以外の品行方正とは言いがたい酒・博打・女関係の行動の数々も、冒頭で軽くほのめかされただけで、具体的には何一つ触れられなかった。そのため、番組中の藤沢氏は、囲碁道を究め弟子の育成に尽力した聖人君子のように描かれている。

 しかし、考えてみると、四文字言葉が口癖だったなんてことは、そもそも放送コードにひっかかるから、NHK では放送のしようがないのである。つまり、あまりにも品行方正からほど遠い人物は、NHK というメディアの特性として、特にそういう意図がなくても、必然的に美化せざるおえないという事情があるようなのだ。

(そう言えば、なぜダウンタウンは二人とも毒舌なのに、浜ちゃんより松ちゃんの方が憎まれるかという話を思い出した。松ちゃんが言うには、浜田の毒舌は過激すぎてそもそも放送できない。だから、オンエアではすべてカットされる。しかし、浜田の毒舌につられて言った松本の毒舌はすべて放送されてしまう。だから、オンエアでは自分ばかりが毒舌を言っているように見えてしまうのだそうだ。もちろんこれは冗談半分の説明だが、妙に筋が通っていて印象に残った。)

 しかし、これで藤沢秀行の人物像がバランスよく伝わったと言えるだろうか。もちろん、たった 30 分の番組で完全な人物像を伝えるなんて、もとより無理な話ではあるのだが、二つの極端な面のうちの片方しか伝えないのでは、デフォルメとしてもバランスを欠いているだろう。この番組の場合、対象が亡くなったばかりの一個人だからまだいいが、これがもし旧日本軍の実像とかだったら、美化しすぎという批判は免れまい。

 ぼく個人としても、藤沢秀行について最も興味があるのは、そのような両極端の性格が、どのようにして一つの人格に統合されているのだろうか、ということだ。そこにこそ、藤沢秀行という人格の秘密が隠されているはずだし、それを追求するのがドキュメンタリーというものだろう。しかし、そのようなドキュメンタリーを製作する上で、NHK というメディアは、出発点からハンデを抱えているようだ。

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調整がない?

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 報道ステーションを見ていたら、盲目のピアニスト辻井伸行氏の受賞後初コンサートの特集をしていた。その中で、辻井氏が現代曲の練習をしている場面があって、「ちょうせいがないのでたいへん」というような発言をしていたのだが、テロップでは「調整(キー)がないので大変」という字をあてていた。

 この「ちょうせい」はもちろん「調整」ではなく「調性」なのだが、これだけなら単なる変換ミスと解釈できないこともない。しかし、その後にわざわざ「(キー)」などと挿入してあるので、かえって違和感を感じた。

 実は、この「調性」という日本語には、二種類の使い方がある。一つは、「この曲の調性はハ長調です」というような使い方で、この場合には、「この曲のキーはハ長調です」と言い換えてもまったくおかしいことはない。

 しかし、上の例のように、「この曲には調性がない」という意味で「この曲にはキーがない」とは言わないのである。少なくともぼくは、そういう用法をあまり見たことがない。この意味を英語で言いたい場合は普通、「この曲にはトーナリティ(tonality)がない」、もしくは、「この曲はアトーナル(atonal)である」と言うはずである。

 なぜこのような使い分けをするかは、意味を考えればわかる。曲に調性がある、というのは、その曲全体が特定の中心音を持つ音階(旋法)によって表現されていることを指す。したがって、調性を表現する音階にはさまざまな種類があり、それを区別するための名前が調である。調を最も特徴付けるのはその中心音なので、中心音が、1 オクターブの 12 音の中のどの音かによって調を識別する。だからこれをキーと呼ぶわけである。

 これはたとえば、「あの人の名前は山田です」という代わりに「あの人は山田です」と言ってもおかしくないが、「この村には人がいない」という代わりに「この村には名前がいない」といってはおかしい、というような話だと考えてもよいかもしれない。

 だから、このテロップを書いた人はたぶん、あまり音楽に詳しくないのではないかと思う。まあ、ぼくは自分もそれほど知識がある方ではないし、無知自体をそれほど悪く言う気はないが、わかっていないくせに誰にも確認せずに放送してしまうという根性はあまり好きになれないので、少々苦言を述べさせていただいた。

追記: 初稿を投稿してからいろいろ調べてみると、このキーという言葉の使い方は、実際にはかなりいい加減みたいなので、少し表現を和らげて書き改めた。英語の key も、特定の中心音を持つ音階を指すこともあれば、中心音そのものを指すこともあるみたいで、ネットを検索しても、"The music has no key " みたいな表現がまったくないわけでもないようだ。しかし、"The music is atonal" もしくは "has no tonality" という表現の方がはるかに多いようなので、やはりこの表現の方が一般的なのだろうし、誤解も少ないと思う。

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プライドと偏見

プライドと偏見 [DVD]  ジェーン・オースティンの古典「Pride and Prejudice」を映画化した「プライドと偏見」を鑑賞。ちなみに、原作は未読です。言葉を扱う職業の末端に連なるものとして、すこーし恥ずかしく思います。

 さて、何より印象に残ったのは、とにかく、映像やカット割りが凝っていること。特に、この監督は長回しにこだわりがあるらしく、その点ではスピルバーグ以上かもしれない。

 冒頭のシーンからして印象的だ。キーラ・ナイトレイ演ずる主人公のエリザベスが家に戻って来るところから映画は始まる。カメラは物干し場のあたりからずっとキーラを追い続ける。やがてキーラはドアの前まで来るが、中には入らず、そのままドアの前を通り過ぎる。そこでカメラはキーラを追うのをやめ、そのドアから家の中に入っていく。そしてしばらく家の中の様子を写してから向きを変え、入ってきたのとは別のドア越しに外を写す。すると、さっきドアの前を通り過ぎたキーラが庭を回ってちょうどカメラの前まで来ているのだ。これを全部ワンカットで撮っているのである。かっこいい。この瞬間に映画に引き込まれた。

 中盤の舞踏会のシーンなんかも圧巻だった。ダンスを終えたキーラが別の部屋に移動するのを追って移動を開始したカメラが、途中からキーラを追うのをやめて、あっちの部屋からこっちの部屋へと次々に移動し、その間にいろんな人物がフレーム・インしては小芝居をしてフレーム・アウトすることを繰り返し、最後にまたキーラのところに戻ってくる。それを全部ワンカットで撮っているというメチャメチャ長回しのシーンがある。舞踏会だからもちろん主要人物以外の役者も大勢うろうろしているわけで、一人でもヘマすればすべてが台無しである。完成した映像だけを見ると自然に見えるが、撮影にはさぞや手間がかかったに違いない。

 このような長回しのカット割りは、撮影に手間がかかるという意味で技術的に高度なだけではなく、ある種の雰囲気作りにも役立っている。頻繁なカットの切り替えは、映像の意味付けをはっきりさせストーリーを理解しやすくするが、逆に、映像がストーリー・テリングの都合だけで人工的に作られているような印象も与える。一方、長回しのカット割りは、現実に起こっている事件をドキュメンタリーで撮っているような臨場感を与える。また、カットの切り替えがあると、カットとカットの間のつながりが問題になるが、長回しにすれば、カットの間は最初からつながっているのだから、当然ながらつながりも自然になる。

 おそらく、このようにストーリーを性急に追わずに細部にこだわるような撮り方が、本作品のような古典にはふさわしいと、この監督は計算したのではないだろうか。そして、その計算は功を奏しているように見える。

 実際ぼくも、こんなふうにカット割りのことばかり気にしながら観ていたので、ストーリーの方は正直よく覚えていなかったりする。もっとも、ストーリー自体は、金持ちのイヤミな男が実はいい奴だったというありがちな話である。これはもちろん、古典だからしょうがないと思う。

 それでも最後まで退屈さを感じることがなかったのは、キーラ・ナイトレイの魅力も大きい。なにを隠そう、ぼくはああいうアヒル口で気の強そうな女性に弱いので、映画が終わるまでずっとキーラの顔だけを観ていても飽きなかったろう。まあ、そんな個人的な好みを知りたい人は誰もいないかもしれないが、彼女はこの演技でアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたらしいから、客観的に観てもいい演技だったのだろうと思う。派手さはないけど、丁寧に作られた好感の持てる映画だった。

 余談だが、この映画、レーティングは PG だが、性的なほのめかしは結構ある。たとえば、豚小屋に入ってきた雄豚の局部がなぜかみょーにはっきり写り、それを見たベネット夫人がニヤッとするシーン。あるいは、コリンズ師が説教の最中に「through intercourse」と言ってしまい、あわてて、「through the intercourse of friendship or civility」と言い直すシーンなどである。後者は、字幕では「交わりを通じて」と訳してあるが、その直後にわざわざ平静を装う女性の顔が挿入してあり、監督の意図は明白である。あまりに露骨にフロイト理論を踏襲しているきらいはあるが、おそらく、そういう暗示を通じて、当時の社会の性的な抑圧を表現したかったのだろう。

※ Wikipedia 英語版の「Long Take(長回し)」の項目を見ると、案の定、「Directors known for long takes(長回しで有名な監督)」に本作品の監督である Joe Wright が挙げられている。

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